「っく……」
不意に込み上げてきた不快感に、作業の手を止めて胸元を押さえた彼女。浅く呼吸を繰り返し、服が皺になるのも構わずぎゅっと押さえたそこを握り締めて、そしてようやく緩やかに消えていった感覚。
もしかしたら、そう、なのだろうか。
ある種の確信にも似た予感に、彼女はやんわりと下腹部に触れた。
(一人の時で良かった……)
同じ部屋を使う彼女の夫である青年は、僅かの休憩と食事の時間以外、一日の大半を執務室に篭って執務に明け暮れていた。ラントを数日空ける為、明日の出発を前に前倒して出来る案件の決済を行っているのだ。
ウィンドル、ストラタ、フェンデル。現在エフィネアに存在する三つの国家が友好条約を締結して三年になろうとしている。今回は三国間での通商条約の正式締結の式典が行われることもあり、会場となるウィンドル王国の王都バロニアに、ストラタの大統領とフェンデルの総統が来訪する。
かつての旅で両国の元首と顔見知りとなったことや、条約締結の為の外交で青年が王の名代として二国に赴いたこともあり、国王に望まれて出席することとなった彼――アスベル・ラント、現ラント公爵領、領主。
同じく招待された義理の妹は、恐れ多くも国王にお茶をしようと誘われたのだと、今日の昼過ぎに先にラントを出発している。もしかしたら今頃、私人に戻った王と共によるのティータイムを楽しんでいるのでは無いだろうか。
義妹以外にも、かつての仲間たちはそれぞれに招待を受けている。
今はストラタの若き大佐となっている青年の実の弟は、大統領の護衛も兼ねて出席するし、フェンデルが誇るアンマルチアの天才技師も、穏健的改革を進める活動家となった男も。
そして彼女自身も、青年の妻としてだけではなく、混乱期に世界を巡り癒しを与えた救護使節の代表だったことで。
良い意味だけではなく、政治的な思惑も絡んでいるのだろうが、それでも「自分たち」が式典に揃って出席することは揺るがない絆と約束を多くに知らしめることになる。
だからこそ、例え「そう」だったとしても、明日の出発を取り消すことは出来ない。
(式典が終わるまでは……)
もし、分かっていたと知られれば、確実に怒られるだろう。
でも。
と、音を立てて開いた扉に、思考の海から意識を浮上させた彼女は、疲れたように頭を掻きながら部屋に入ってきた青年に声を掛けた。
「アスベル、終わったの?」
「ああ、何とか。朝まで掛からなくて良かった……」
寝台に腰を下ろしたアスベルが本当にしみじみと呟くものだから、シェリアはおかしくなって小さく笑った。
「ふふ。お疲れ様」
妻の労いに、青年は柔らかに二色の瞳を眇めて言う。
「手伝うか?」
「え? あ、大丈夫よ。これを入れたら終わりだから」
言って、革張りのトランクに手にしていたタオルを入れたシェリアは、蓋を閉じて開かないようにベルトを掛けると、一つ息を吐いた。
「終わったなら、シェリア」
ぽん、と一つ自らの隣を軽く叩きながらシェリアを呼んだアスベルに、彼女は立ち上がりながらも頬を染めて言い返す。
「駄目よ」
「まだ何も言って無いぞ」
「……アスベルの考えていることくらい分かるわよ」
幼い頃から国宝級の鈍さを持ち続けてきた青年は、自分の想いに気付いてから、取り分け双方の想いが交わって「恋人」と呼べる関係になった後から、時折別人では無いかとシェリアが思ったくらいに押しの強さを見せるようになった。
それでも最初は互いに距離を計りつつ、だったのだが……深い関係になってそれなりに回数を重ねれば、実は確信犯な仕草も見えてくるわけで。
「明日は早いんだし」
「大丈夫だって」
「とにかく、駄目なものは駄目」
「……あの時期では無かったよな?」
「ア、ス、ベ、ル……!」
「わ、分かった。……じゃあせめて、添い寝くらい許してくれよ」
な、と困ったように笑む青年に、シェリアは小さく息を吐いて寝台に腰掛けている彼の元へ歩み寄る。
「約束破ったら、しばらく独り寝してもらうから」
「分かった。……どこか体調が悪いわけでは無いんだよな?」
純粋に心配をするような表情で尋ねたアスベルに、内心でドキリとしながらシェリアは笑顔で答えた。
「ええ、大丈夫」
その答えに安堵したように、顔を緩ませた夫に少しだけ胸を痛ませながら。