お茶にしないか、と珍しくも青年から切り出されてシェリアは不思議に思いながら首肯した。いつもならば自分の方が没頭し過ぎる彼を諌めて休憩時間を作る、それが日常だったからだ。
今日もそろそろかと思いながら、ソフィに準備をしてくると告げて領主邸内に戻ったシェリア。そのタイミングをまるで見計らっていたかのように開いた扉から顔を出した邸の若き主――アスベルは、彼女が頷くのを見ると執務室へと招いた。
招かれるままに部屋へ入ったシェリアは、大きな執務机の横に椅子が置かれているのを見てアスベルに視線を向けるが、青年は彼女の視線に気付きながらもただ椅子を勧め、待っていてくれと言って入れ替わりで出て行ってしまう。
「もう、何なのよ」
調子が狂う。
主の居なくなった部屋に独り残されたシェリアは誰に言うでも無く呟きながら、用意されていた椅子に腰掛けた。
何か特別なことでもあっただろうか、と意識を思考の海に沈めてみた彼女だったが、しかしすぐに浮上することになる。少なくともここ数年は何も無かったし、最近のことを思い返してみても特別変わったことは無い。
これは本人から聞かないと、と思った所で執務室の扉が開く。
「な、何? どうしたの?」
「何がだ?」
「それはこっちのセリフよ。何でアスベルが自分でワゴンを押してくるの?」
領主の嫡子と言えど、自分で出来ることは自分でやる。けれど執事であるフレデリックやメイドの仕事を取ってはならない、それが彼等の仕事だから。
幼い頃にそう教えを受けたラント兄弟は、出来ることは自分でやってしまうが、しかしそうしてはならない場や時もきちんと心得ている。
特に正式に領主に就任した後のアスベルはフレデリックに時折遠まわしに諌められたりしていたこともあり、それまでよりも更に明確に線引きをするようになっていた。
フレデリックやメイドは寧ろそれが当然なのだというように粛々と若き主の命に従っている。だからこそアスベルが普段は彼等の行う仕事を自らの手で行っていることに、シェリアは驚いたのだ。
「今日は頼んでやらせてもらった」
悪戯っぽく笑いながら彼女の疑問に答えたアスベルは、押して来たワゴンを机の横に止めると、その上に載せていたマグカップを手に取ってシェリアの前に差し出した。
「あ、ありがとう……」
ふんわりとココアの香りが鼻腔をくすぐる。促されるままにゆっくりとカップに口をつけたシェリアは、ワゴンの上に乗っていたスリーティアーズを机に置いて、自分のカップを手にして椅子に掛けたアスベルを待って口を開く。
「ソフィは呼んだの?」
「いや。多分、今ごろ母さんと一緒じゃないかな」
「ケリー様と? それなら一緒にすれば良かったじゃない」
「…………シェリア、やっぱり分かってないか?」
困ったように笑いながらそう返したアスベルに、シェリアは何のことだと首を傾げた。
「一ヶ月前の今日、ホットチョコレートをくれただろ?」
「え?」
「シェリアがラントを出た後にパスカルにバレンタインのことを聞いて、もらったら一ヵ月後のホワイトデーにお返しするのよ、って言われてさ。今年はシェリアが帰って来たし、もし貰えたら今年こそちゃんとお返ししないとって色々考えてたんだよ」
机の上に置かれたスリーティアーズのプレートの上には、一口でつまめるような菓子や軽食が色々置かれている。
「…………もしかして、アスベルが作ったの?」
「さすがに全部じゃないけどな。ちょっと形が歪なのは見ない振りしてくれ。味はフレデリックに見てもらったし、大丈夫なはずだ」
言われて、クッキーを手にして口へと運んだシェリアは、甘すぎないその控え目な味に頬を緩ませた。
「美味しいわ」
「そうか、良かった……」
シェリアが言うとアスベルが心から安堵したように息を吐いたものだから、彼女はくすりと小さく笑う。
「驚いたわ、とっても」
「なら良かった。旅の時のお返しも含めてだから」
「旅の時?」
「カレー作ってくれたじゃないか。いつもとちょっと違う味だったから良く覚えてるんだ。旅から帰ってきて、何気なくフレデリックにその話をしてみたら隠し味に色んなものを使うって教えてもらって、その一つにチョコレートがあったからもしかしてそうだったのかな、ってさ」
「もう、おじいちゃんたら……」
頬を淡く染めて祖父へと小さな愚痴を零したシェリアは、ふと疑問に思って手の中のマグカップを見下ろした。
「ねぇ、でもどうしてココアなの? スリーティアーズと言ったら紅茶じゃないかしら?」
「パスカルからホワイトデーの話を色々聞いててさ。その中に、お返しにはキャンディとかマシュマロとかを送ったりもするんだ、って。だからココアにマシュマロ入れてみたんだよ」
「……パスカルには、後でお礼しなくちゃかしら」
「……どうしてだ?」
「だって。私が意識しないくらい無いと思ってたアスベルからのお返しがあったんだもの。そうね、ラント領主様のお許しが頂ければシャトルでフェンデルに飛んでバナナパイとチョコバナナを作りに行ってあげたいくらい」
ふふふ、と笑って言ったシェリアにアスベルは苦笑する。
「許可する、って言いたい所だけど、パスカルなら今ストラタに居ると思うぞ」
「ストラタ?」
「ああ。大蒼海石の調子を見て欲しいってストラタ政府から依頼された、って手紙にあった。…………多分、ヒューバートが作った理由だと思うけどな」
「あら、それならお礼は今度パスカルがラントに来た時にしないと。お邪魔したらヒューバートに悪いものね」
「それなら今度ヒューバートがこっちに来る時に合わせて、パスカルにシャトルの調整を依頼しようか」
「良い考えね。その時は協力するわ。パスカルなら、お礼にバナナパイで釣られてくれるでしょうし」
顔を見合わせて笑って、それからカップを傾けて。
「シェリア」
「なに?」
「来年はあのカレー、作ってくれるか?」
一年に一度だけ、と以前口にしていたことを持ち出して問い掛けたアスベルにシェリアは悪戯っぽく笑った。
「来年で良いの?」
「え? 来年じゃなくて良いのか?」
「良いわよ。ただしお礼は三倍返しね」
これもパスカルから聞かなかった?
そう付け加えた彼女に、アスベルは僅かに黙考した後にそれじゃあと腰を浮かせる。
「……、ん!」
「これで二倍くらいで良いか?」
「…………その理論なら、あと二回で帳消しになるわね」
淡く頬を染めたまま、どうするの、とアスベルを見上げたシェリアの問い掛け。
そして青年は、彼女の手から湯気を立てるカップを取り上げて机に置いてから、その問い掛けの答えを行動で示した。