「降ってきたか」
ぱらぱらと響き始めた音に気付いて顔を上げると、窓の外は完全な雨模様。
もう大丈夫だというのに全員からそれぞれの性格がにじみ出た言葉で心配され、先手を打たれてはさすがのユーリも頷くほかなかった。
傷は癒えても、体はその傷を受けた時のことを記憶するものだ。今回はザウデから落ちる羽目になったその傷を受けた場所に、たまたま魔物の攻撃が当たってしまって、少しの間意識を飛ばしてしまった。それでエステルの治癒術で傷は塞がって問題ないというのにベッドへ押し込まれている。
今日は一歩もここから出ちゃダメだよ。天気も悪くなりそうだし、バウルのことも考えて街でゆっくりしましょう。いい機会だから少しは術式のことも勉強しなさい、嫌なら大人しく寝なさいよ。青年がいるとおねーさんたちの視線が減っちゃうのよねー、てなわけで今日は外出禁止。こんな時くらいお願いですから休んでください、その分私たちがやっておきますから、だって仲間なんですよ。
買出しと、情報収集と、休憩と、それぞれに分担してやるからと、仲間たちが出かけていく前に彼に言った言葉。
以前なら、きっと素直に頷かなかっただろう。ユーリは仕方ないと溜息を吐きながら結局は素直に折れた自分を思い出し、その差異に口元が持ち上がる。
それを少しも煩わしく感じていない、そんな「今」があることを幸福に思える。
そうして思い出したことがあった。少し前――そう、その時からそれほどまだ時は経っていないのだ。ザウデに突入してからようやく半月。つまり彼女と二人で話をしたのも同じくらい前。
とても大切なことに気付けたのは、あの時があったからです。
両手を組んで、瞼を伏せ、そうして顔を上げた彼女は凛とした表情でそう言って、柔らかく微笑した。
「大切なこと、ね」
ラピードとフレンと下町の皆。それだけが彼の陽だまりで、それだけで満足していたのが嘘のように、今は彼らが居ない時間など想像出来なくて。
「世界、仲間、ギルド、……それから」
コンコン、と控えめなノックが響いたのはその時だ。既に仲間達の個性が如実に現れたノックを全員分記憶していた彼は、それだけで扉の向こうに居る人物が分かって口元を持ち上げた。
「いいから入って来いよ、エステル」
確信を持って声を投げかけると、少しの間を置いて静かにドアが開いた。その隙間から顔を覗かせるようにした少女は、頬を小さく膨らませて不満顔だ。
「ユーリ、起きてたんです?」
「起きてちゃ悪いか? 言っとくけど、カロル先生の言いつけ守って此処で大人しくしてたぜ。寝ろ、とは言われなかったし」
「そうですけど……。ユーリの寝顔、見てみたかったです」
「…………オレの寝顔なんざ見ても楽しくないだろ」
「でも、カロルもリタもジュディスもレイヴンも見たことがあるって。ジュディス、可愛かったって言ってました」
その感想にユーリは思わず頭を抱えて項垂れた。成人した男が可愛いと言われても別に褒め言葉では無い。
「いつ…………、って、ああ、あん時か」
ハルルを一人で出てクオイの森で一休みした時だ。あの周辺の敵はさほどの強さではなかったのだが、今までの旅で仲間達と連携して戦うことに慣れたユーリにとって、気心の知れた相棒ラピードとは言え一人と一匹での戦闘はどこか調子が狂って。
今思えば精神的にも大きく疲弊していたのだろう。体の疲労と相俟って、常に無く深い眠りに落ちたのだ。
その眠りから覚めた後の一連の出来事は、彼にとって何とも言えず情けなく、しかし忘れがたい大切なものとなっている。
「カロルとリタは、あの時はすごく怒っていてあんまり憶えてないそうです。けど、後から考えると凄く珍しいものだったのかも、って」
静かにドアを閉めてから、ユーリが半身を起こしているベッドへと歩み寄ったエステルが言うと、彼女からもたらされたお子様達の感想に青年は苦笑した。
「オレの寝顔は何かのレアもんか?」
「わたしにはそうですよ?」
「……あのな」
「ユーリはわたしの寝顔見たことあるかもしれないですけど、その逆はないです。だから今日は見れるかも、って小雨の中急いで戻ってきて……」
小雨。そう言えば外は雨が降り出したのだった。それを思い出した彼は、ベッドサイドに立ったままの彼女を見上げて眉を寄せる。
「エステル、ここ座れ」
「え?」
「ここ。早く」
ぽんぽん、と左手でベッドサイドを叩く青年に、エステルは戸惑ったように彼とその手の叩く場所を見比べたが、促す視線に負けたようにゆっくりと腰を下ろした。
すると、先ほどまで白いシーツを叩いていたユーリの左手が、ぽん、とエステルの頭に乗せられる。
「あの、ユーリ?」
「少し湿ってる。たく、そんな理由で雨の中無理して戻ってくるなって。リタとジュディが一緒だったよな? あいつらも止めろっての」
「そんな理由じゃないです。それに二人も悪くないです。わたしが飛び出してきただけですから」
小さな溜息。それから、乗せられた左手は湿った髪を指先で梳くようにゆっくりと動いた。桃花色のセミロングの髪から、青年の男性にしては細く長い指が離れては戻り、また髪を梳いて離れていく。
「少しは雨に濡れた後の体調のことも考えて行動しろよ」
「……はい、気をつけます」
「ま、そんなに見たいっつーなら、星喰みの件が落ち着いた後に幾らでも」
「落ち着いた後に、です?」
「そう。ただし外野が居ないのが条件だけど。それさえ守られるなら、外でも中でも、どんな状況でも」
にやり、笑って言ったユーリに対して、エステルはどこか不思議そうな顔で小首を傾げた。とにかく読書魔と呼んでも間違いでは無い彼女のことなので、知識としてはその手のことも知っているのかもしれない。けれどそれが自分とイコールになるという考えが皆無に等しいのだ。
「ユーリは星喰みを何とかしたら、下町に戻るんです?」
「なんだ、いきなり」
「わたしは、ハルルに住むつもりですから、あんまり会えなくなってしまいます」
「そんなことか」
「そんなこと、って。同じイリキア大陸でも、帝都から一番近い街でも、お城と下町よりずっと遠いんですよ?」
ユーリは小さく吐息を漏らして苦笑を浮かべ、殊更に優しく彼女の頭を撫でた。
「なんでそう悪い方に考えるんだか」
「……ユーリは、そう思わないんです?」
「思わないね」
きっともうずっとだ。
あの時に決まったのだ、今ならそう確信出来る。
「下町は大事な場所だ。でも、今のオレにとっては絶対に『還りたい場所』ってわけじゃないんだな」
「そう、なんです?」
「前におっさんが言ってただろ。還りたい場所を、故郷って言うんじゃないかって。いつまでってのはハッキリしねぇけど、確かに最初は下町がそうだった。守りたい場所って意味なら今も変わんねぇ。けど、今、『還りたい場所』は違う」
あの瞬間、約束が果たせなくなるなということだけが心残りで。だからこそ自分の部屋で目覚めた時には驚きと同時に、違えずに済んだことを安堵していて。
そして夜の帝都で飛び込んできた温もりを受け止めた時、ああ、そうなのだと、そう思った。
「エステルは」
「はい?」
「ハルルに移るって言っても、あんたは天然殿下から頼まれた副帝としての仕事もやるつもりなんだろ?」
「はい。成人するまでは、これまで皇族として育てられてきたことに対する義務として、積極的に表立ってお手伝いしようと思っています」
「成人するまでか?」
「ずっととは言いません。わたしの一番の夢は童話作家ですから。でもせめて、星喰みの影響を受けた世界と、魔導器が無くなった後の人々の生活について何らかの支援が実行出来るまで……。表立つことはしなくても、ヨーデルの『目』となれればと」
「ハルルから旅立って、世界を見て?」
「はい。そしてまたハルルに帰って、旅の間に得た思い出も参考にお話を創って……」
脳裏には鮮やかに描かれているのだろう、微笑を浮かべたエステルにユーリは言った。
「エステルの還る場所、ってことか」
「その時にはそうなっているんだと思います。……ユーリの、還りたい場所って、何処……です?」
知りたいと雄弁に語る瞳を真っ直ぐに向けられ、青年はどう答えたものかと僅かに思案しつつ、そう言えばまだ言っていなかったと口を開いた。
「おかえり」
「ユーリ?」
「答えてくれないの?」
「……ただいま」
戸惑いながらも以前に交わした「約束」を思い出してしっかりと答えた少女に、彼は頭に乗せていた手を滑らせて再び彼女の髪を梳く。
「逆もそうだけど、それが、いつもと同じように聞ける場所」
「いつもと同じように?」
微妙に分かっていない彼女に、ユーリは苦笑しながら髪を梳いていた手を離して、思案顔のエステルの頬を指先で軽く弾いた。
「他の連中が戻ってくるまでの課題な」
「分からなかったらどうなるんです?」
「罰ゲーム。そうさな……、膝枕でもしてもらおうか?」
「膝枕が罰ゲームなんです?」
「さすがに抱き枕とか言ったら、リタに見つかった時に命が危うくなりそうだし」
「……ユーリなら、いいです、よ?」
頬を淡く染めながら心なしか上目遣いで。決して意味が分かっていないわけではなく、恥じらいを感じた上でそう言えるのに、なぜそれより分かり易いはずのさきほどの会話の答えが分からないのだろうか。
でもまあ、それがエステルなんだよな。ユーリはそう思いながら、起こしていた半身をベッドに沈めた。
「ユーリ?」
「オレ、一眠りするわ。罰ゲームは無しでいいから、あいつらが帰って来たら部屋に入れる前に起こしてくれ。エステルはその間に、さっきの課題についてじっくり考えといて」
そう言って瞼を落としたユーリに、エステルは分かりましたと小さな声で答えて。
それから数分か数十分か、始めは本当に眠るつもりはなく、微睡んでいた彼が、手招きする睡魔に負けて夢の淵に堕ちる間際にその声は密やかに響いた。
「わたしが居る場所、です?」
確信は無いことが窺える声音に苦笑を返そうにも、今すぐには無理そうだ。どうしてこう外してくれるのだろう、この姫様は。こうなったら意地だ、とことんまで確信させないまま、けれど逃がさぬようにしてしまおう。
もう、自分の還る場所は変えられないのだから。
青年は穏やかな眠りに落ちる間際にそんなことを思いつつ、遠慮がちにふわりと触れた温もりを合図に夢に堕ちた。