占い 恋のアン・ドゥ・トロワ 1.名前を呼んでもらいましょう



「え、えぇと……。名前を、読んでもらいましょう?」
 思わず、と言った様子でエステルが読み上げた章のタイトルの下には、次のような文章が記されている。

 ――相手を呼ぶこと、そして相手に呼んでもらうこと。幼馴染、もしくは友人、近しい関係から恋人になった人達でも、それまでとはまた違うもの。それまで名前で呼ばれていなかった人は名前で、名前で呼ばれていた人は愛称で呼んでもらえるようになりましょう。

「愛称、で。……もう愛称で呼んでもらえてるわたしはどうしたらいいんでしょうか……」
 少しずつ段階を踏んで書かれている内容のはずだというのに、最初のそのまた最初から既につまづいてしまったらどうすれば良いんだろう。
 本を開いたまま思わずテーブルにつっぷしたエステルは、ころりと首を動かして、はふ、と溜息を漏らした。
「名前、名前…………、そうです!」
 ガバリ、勢い良く顔を上げたエステルは良いことを思いついたとばかりに瞳を輝かせる。
「絶対、ユーリに名前で呼んでもらいます……!」
 ぐっ、と拳を握り締めた彼女は、しおりを挟んで本を閉じた後、彼の青年が居るであろう宿の中庭へと足早に向かった。


「あれ、どうしたの、エステル?」
 体と同じくらいの大きな剣を持ち、黒髪の青年と相対していた少年が、小走りにやってきたエステルを見つけて不思議そうに声を上げた。手を止めた少年に合わせてこちらも構えを解いた青年は、肩越しに振り向く。
「あんた、読書するから部屋に篭るって言ってなかったか?」
「はい。えぇと、少し休憩です」
「休憩、ね」
 ふぅん、と訝しげに剣を肩に乗せてエステルを見る青年。それもそうだろう、いつもなら篭ると宣言しなくとも、新しい本を得た彼女は周囲もそっちのけでその世界にのめり込んでしばらく帰ってこないのだから。
「丁度良いし、ボクも休憩して来ようかな」
 何かを察したのだろう、少年が大剣を鞘に納めながら言うと、青年が片眉を上げながら言う。
「まだ休憩が必要なほど動いてないんじゃないの、カロル先生」
「そ、そうかな? えぇと、とにかくっ、ボクは休憩するから!」
 それじゃ、と素晴らしい早さで行ってしまったカロルに、青年が溜息を吐いた。
「あの、ごめんなさい、ユーリ」
「エステルのせいじゃないし。カロル先生が勝手に気ぃ回してくれただけだろ」
「カロルには鍛錬の邪魔をしてしまったことを謝らないと、です」
「知らなかったなら仕方ないんじゃないの。……それで?」
「はい?」
「オレに何か用があったから来たんだろ」
 剣を鞘に納めながら問うたユーリに、エステルは頷いた。頷いて、しかし何て言ったら良いものかと、青年を見つめたまま考え込んでしまった。
 様子を見て彼女が思考の海に沈んだことを悟ったのか、青年は小さく肩を竦めてから歩み寄り、眼前で軽く手を振った。それでも戻ってこない様子に、溜息を漏らしてから彼女に呼びかける。
「エステル」
「…………」
「エステル、おーい」
「…………名前」
 名前、とだけ呟いたエステルにユーリは首を傾げつつ、背を屈めて耳元で囁いてみた。
「エステル、……エステリーゼ」
「っ!?」
 途端、体をびくりと震わせて覚醒した様子の姫君は、頬を淡く染めてユーリが囁いた方の耳を押さえる。さすがに驚いた青年だったが、その分かりやすい反応につい笑いが零れ、くつくつと堪えるように笑う。
「笑わないで、くださいっ」
「悪い。しかし、何の本を読んだんだ? 今更だが、名前で、ってあんたが思うようなことが書いてあったわけ?」
「そ、それは、その……」
 全く持って殆どユーリの推察通りではあるのだが、簡単に口にするわけにはいかない。ただでさえ恋という未知の感覚に戸惑うことも多いエステルに、いつも余裕があるユーリは「恋人」となる前から色々と彼女を翻弄してくれて、少しは自分から考えて行動に移したいエステルにとって、あの本はまだ存在を知られたくないものだ。
「まあいいけど」
「……なんだかずるいです。ユーリは、わたしを呼ぶことだけで、わたしを好きにしてくれて」
「何だか誰かが聞いたら誤解しそうなセリフだな。まあ、名前は最小の呪だって言う説もあるんだし」
「……それはわたしも知っていますけど、ユーリも知っていたんです?」
「騎士団の座学で、魔術の基礎知識かなんかの豆知識かなんかだったか。講義は右から左に流してたが、それだけ妙に頭に残ってたから憶えてた」
 だから、と彼はエステルの頬に右手を添え、さらりと髪を耳に掛けつつ再び背を屈めた。
「エステリーゼ」
「……っ」
「あんたのこんな顔、他の奴に見せたくないし、呼ぶのは二人きりの時だけな」
「ずるい、です、ユーリ……」
 跳ねる鼓動を抑えながら目線を上げると、彼は珍しく困ったような顔で笑んでいる。
「始終オレの名前を呼べるあんたの方が、ずるいと思うけど」
「……え?」
 ぽん、と頭を軽く叩かれたエステルは、背を向けてしまった彼にそっと近付いて見上げた。その耳が僅かに赤くなっていることに気付いた彼女は、あ、と少し驚いた後に笑みを浮かべて口を開いた。
「ユーリ」
 一言だけで相手を縛る、最小の呪を甘やかに紡ぐために。



名前
呼んで
もらいましょう
あなたの名前を呼ぶだけで、あなたに名前を呼ばれるだけで、幸せが大きくなるんです
可愛らしく甘く、を心がけています。そして恋に不慣れなエステルと、実はこっちはこっちでいっぱいいっぱいなローウェル氏を書きたい、と思ってます。最初はもっとエローウェル氏が降臨する予定だったのですが、この掌編では可愛らしくを心がけて抑えてもらいました。
[脱稿:08'12.23 掲載:08'12.30]


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