「あんた、何?」
教室に入って、さて事情を説明するかと思った矢先の、ある意味唐突で生意気な問いかけに答えつつ、ああこいつが礼の生徒かとユーリは思っていた。
大学時代の恩師を通じて、そのゼミのOB――つまりユーリの先輩が勤める進学塾の数学の講師を頼まれた際、生徒の情報として特にと説明されていた少女。
リタ・モルディオ。未だ中学生ながら、既に大学特進コースを受講し、かつ全国模試では受験を始めてから理数系のトップを譲ったことは無く、その他の科目についても五位以下に堕ちたことは無い。自他共に認める天才少女。しかしそれ故に扱いにくい生徒でもある、と。
「ユーリ・ローウェル。いつも講師をしている先生の後輩。私とその先輩の恩師である教授の推薦で、先輩がご実家の事情で来られない間、臨時でこの授業を担当することになった」
その説明で殆どの生徒は納得したが、やはり問いかけを発した少女はそれでは納得しなかった。
「いくら推薦があっても、現役でしょ? それでここの特進の講師が出来るわけ?」
「大学の現役という意味では違う。列記とした卒業生だ」
「卒業生……?」
「飛び級制度を利用して卒業したので」
質問は終わり、とばかりに教本を開き、例題をホワイトボードに記入した後、講義を始めたユーリ。
生徒達は一様にテキストとノートを広げてユーリの説明をメモし、或いは例題を解き始めるが、少女は問題を解いたのだろう、話は右から左へと聞き流している。
これは話に聞いていたよりも随分と面倒らしい。ユーリはテキストを読み上げながら横目で様子を伺いつつ、内心で呟いていた。
一通りの説明を終えた後、最初が肝心だからと彼の少女に視線を向けて言う。
「リタ・モルディオ。この講義に出ているからには、真面目に聞いてもらえるか」
「要は当てられた時に答えられればいいんでしょ」
「それは個人授業でなら正解の答えだな」
明らかにムッとした表情になった少女に、ユーリはそっと溜息を吐いてからホワイトボードの空きスペースに、図と数式を書き始めた。
「これは、一応これまでに出てくる数式を使えば解けるはずの応用問題。ただ、所々で捻ってあるから、通り一遍の考え方では解を出す事は出来ない。テキストの例題も応用も出来た者は挑戦してみるといい」
塾とは言え、予習をしてくる生徒が当たり前のコースに居る生徒達である。内容が理解出来ているならば、このようなやり方も悪くは無いだろう。
「リタ・モルディオ。講義を聞く必要が無い様子の君なら、当然、これくらいは出来ると思っていいか」
「やってやろうじゃない」
挑発に乗ったリタは、鋭い視線で記入された問題を手元のノートに写し始めた。他にも、既に応用問題まで解き終わっていた者達が同じく視線を向ける。
「では、続きを」
講師用のこの口調といい、少女への対応といい、初日から厄介だと思いながらユーリは口を開いた。
ふと腕時計に視線を落とし、講義予定時間の十分前を示していることを確認したユーリは、リタへと視線を向けた。
「最後に、先ほど出した問題だが――。リタ・モルディオ、解けているなら前に出て解を記入してもらえるか」
リタは眉根を寄せた表情で席を立つと、前に出て来てユーリの差し出したペンを取った。そのまま、問題の下の空きスペースに声に出して説明しながら解を記入していく。
「――よって、解はこうなる」
どう、と挑戦的な視線でユーリを見ながら言葉を示した少女に、彼は僅かに口元を持ち上げてから返されたペンを手にした。
「正解。だが、随分回りくどい解き方をしたようだな」
「これ以外に最良の解き方があるって言うの?」
「捻ってある、と言ったのは覚えているか」
少女にそう返しながら、クリーナーで基礎問題を記入していた部分を消すと、キャップを外したペンでさらさらと解を記入していく。
「ここをこうして、こうすると」
「ここでこの数式? この、定理? どれだけ捻ってあるのよ。って言うかこの問題、どこから見つけてきたわけ?」
「どこにも。今、此処で考えたものとしか」
さらった答えた青年に、少女は驚きの目を向けた。丁度良く講義の終わりを告げるベルが鳴り響き、ユーリは教本を閉じながら生徒に向けて口を開いた。
「次の講義はこの次の章から」
帰る用意をして声を掛けながら帰っていく生徒達。質問に来た何人かに対して答えた後、教本とノートとを手にして教室を出ると、少女が待ち伏せするように立っていた。
「……質問があるなら受け付けるが、他の講義は良いのか、リタ・モルディオ」
「…………あんた、何者?」
「最初に答えたはずだが。ユーリ・ローウェル、この授業を担当している講師の後輩だと」
「大学の現役という意味では違う、ってのは」
「その大学は卒業した。就職もしたが、一身上の理由で退職して製菓学校の学生をやっているから、そういう意味では現役の学生ではある、ということだな」
「製菓学校!?」
「そう。数学は、必修じゃなかったんだが本来のゼミの教授の許可をもらって、聴講生として講義を受けて、今回の講師はその縁で。本来は法学部だったからな」
「……とんでもなく変な経歴じゃない」
素直な感想に思わず笑ったユーリは、卒業後の就職先を知ったらこの少女はどんな反応を返すのだろうかと、そんなことを考えつつ、そうだなと返した。
「まあいいわ、あの問題面白かったし。授業は真面目に聞くから、今度も何か一つ考えといて」
「そういうことなら、考慮しておこう」
そしてこの日出会った少女と、この臨時のアルバイトが終わった後も縁を持つこととなり、それが一生ものとなることになるのだが――この時の二人はお互いに変な奴という意識しか持たず、そのようなことなど天文学的確率な数値ほども頭に無かった。