(これさえなけりゃあな)
通勤時間帯の上り電車はどの路線においてもすべからく地獄と化す。
学生時代は徒歩数分の場所にある寮、短かった公務員時代も庁舎から二駅ほどしか離れていない寮。義務教育時代は当然徒歩での通学であったので、ユーリがこうしてラッシュの真っ只中の電車に乗るようになってからまだ日が浅い。
バイク通学も可能なのだが、あいにくと駐車スペースは空きがなく、またガソリンも高いとあって学割が使える電車での通学と相成った。
知らないわけではなかったが、それでも実際に体験するとなると別だ。まさに言葉通り。下手したら圧死するのではないかというくらいで、すし詰めというより詰め放題で小さな袋に無理やり押し込まれる商品のような、と言う方が適切な表現と言っても過言ではなく。
ただ、人よりも平均身長を上回るユーリは乗客の中でも頭一つ飛び抜けていることもあり、恐らくまだマシなはずだった。つり革でなくても天井近くの手すりに楽々と手が届くので、他に比べて息苦しさはない。
昨日は園に泊り込む日だったため、自分の部屋より広く、しかも業務用(人数が居るので家庭用では追いつかない)の冷蔵庫やらレンジやらコンロ、何よりオーブンが使い放題でついついやり過ぎてしまったのだった。まあ、そのやり過ぎはお子様達には好評であるので構わないだろう。実害があるとすれば、青年の睡眠時間くらいだ。
込み上げてきた欠伸をかみ殺し、浮かんだ涙の潤いを助けに何度か瞬きをすると、眠気でぼんやりしていた視界も幾分かはっきりとした。
その視界の端に捉えた動きに反応したのは、職業病というほどには長続きしなかったが、前職の影響があるのか。
距離にして一歩か二歩前といったところだろうか。セミロングの髪の女子高生、そして半歩ずれた後ろに三十代後半のスーツを着た男。
確かに混みあった車内で、前後左右に隙間と言える隙間はない。一見すれば揺れに伴って仕方なく密着しているようだが、それにしては不自然な動きが目に付いた。
顔は向けず、視線だけを動かす。そして、今度は確かに捉えた手の動き、何よりも少女の蒼褪めた顔。
男を挟んでユーリとは反対側に居るOL風の女性も気付いたのか、しかし言い出せずにいるようだった。
ユーリはそのOL風の女性に視線を向け、手すりを掴んでいた手を離してひらひらと振って見せた。気付いた女性がユーリを見ると、彼は鋭い目線で男を示す。その意図に気付いて女性が頷くと、ユーリは再び不審な動きをした男の腕を掴んで捻り上げた。
「ぐっ……!? な、にを……!」
「そりゃこっちのセリフだ。ああ、この通り身長には恵まれてるんで、上からバッチリ見てる。ちなみに横のおねーさんも確認してるからな。言い訳は後でいいぜ、次の駅の交番でゆっくりどうぞ?」
目だけは冷たく、口元には笑みを。それを見て男が言葉に詰まると、青年は気にした様子もなく女性に話しかけた。
「そういうことなので、そちらのおねーさんもお付き合い願えますか。あと、車内通報ボタンの近くにいるそこの少年、それ使って車掌に連絡してくれるか」
突然のことに驚きつつも、ユーリの言葉に従ってボタンを押した少年が車掌とやり取りをする。それを見てから、彼は驚きに目を瞠っている少女に視線を向ける。
「嬢ちゃん、もうすぐ次の駅だ。足は動くか?」
「は、い」
小さいがちゃんと返された声に頷くと、都合よく電車が駅に停車した。
周囲の乗客も状況が分かったのだろう、ユーリと腕を掴まれている男、女子高生とOLが降りるのを助けるように、あるいは先に降りて、あるいは道を開けてスムーズな降車に協力するように動いた。
「連絡はさっきしたばかりだから、まだか」
周囲をさっと見回しながら呟いたその時、男がユーリを振り切って駆け出した。
ホームの人を押し退けるように走る男に、そこかしこから悲鳴や怒声が上がる。
「ちっ……!」
片手に持っていたデイバッグを放り出すように駆け出すと、男の駆けた後に出来た人の合間を縫って追いかける。コンパスの差からすぐに追い着いたユーリは今度こそ手加減無しに腕を掴んだ。
「面倒かけんじゃ、ねぇ!」
容赦なく足払いを掛けて引き倒し、掴んだ腕を捻るようにして背中に押さえつける。痛みに悲鳴を上げるが、往生際悪く逃げようとしたのは明確で、手加減を考慮する余地はない。
「反省の様子なし、と。オレは善良な市民だから見たまんま証言させてもらうぜ。あんたが逃げようとしたこともな」
「っ、これは不当な拘束だ! 暴力じゃないのか!?」
「現行犯なら一般市民にも逮捕権はあるんだよ。もちろん、警察に速やかに引き渡すのが前提になるけど。言っとくけど、その辺には詳しいんで幾らでも説明出来るぜ」
と、ざわめいている人々を掻き分けるように三名の警察官が駆け寄ってきた。その見覚えのある顔に、ユーリは話が早く済みそうだと内心安堵する。
「こ、これは……!」
「取り合えず、こいつを頼むぜおまわりさん。被害者はあそこに居る女子高生、証言者はオレと被害者の隣に居る女性。八時五分着の五両目後方、車内で駅到着数分前に現行犯」
「は……!」
敬礼しかける姿に視線で止めると、上司の指示に従ってユーリの抑えた男を両側から抱える二人の警官。
立ち上がって振り向くと、途中で放り投げたデイバッグを回収しつつ少女へと歩み寄ったユーリ。
「嫌なことを聞く。あの男に痴漢行為をされていたな?」
「っ……」
「オレもこっちの女性も確認はしているが、それでもあんたの言葉が何よりも重要になる」
「は、はい。始めは勘違いかと、思いましたけれど、でも、確かに、触られ……ました」
思い出してしまったのだろう、搾り出すように、けれど最後まではっきりと言葉にした少女に、女性が痛ましそうな顔になった。
それは勿論、結果的に言わせてしまうことになったユーリも同じだった。彼は反射的に手を伸ばして、ぽん、と少女の少し俯きがちだった頭に手を乗せる。
「頑張ったな。嫌なことを聞いちまって、悪かった」
言って、ぽんぽんと軽く頭を叩けば、少女は小さく首を振った。
「お話中、申し訳ないが……」
「ん、ああ、いつでもいいぜ」
「ではご案内しますので、こちらへ」
少女と話している間に男は既に連れて行かれたようだ。ユーリ達は残った警官の案内で、駅の中にある交番へと向かった。
被害者である少女の証言と、それを目撃したユーリとOLの二人の証言。更には、同じ車両に乗り合わせていた数人から証言を申し出る旨を警官が受けていたらしい。
これだけ一致した証言があれば男の犯行は明確で、これから管轄の警察署に連行して更に詳しく取り調べられるだろうと警察官――ルブラン巡査部長は言った。
「八時二十五分、か。嬢ちゃんは学生だろ? 学校に連絡入れた方が良いんじゃないか」
「あ、そ、そうでした……!」
慌てて携帯電話を取り出した少女に、ユーリはそれを制してルブランを見た。
「こういう時は警察から掛けた方が良いだろ。な、ルブラン巡査部長」
「はっ! 仰るとおりです、け……。ローウェル殿」
「さて、調書も取り終わったんだ、オレは先に行かせてもらうが……、きちんと学校まで送ってやってくれよ、おまわりさん」
足元に置いていた荷物を取り上げながら言って、背を向けたユーリ。
「あ、あのっ、待ってください」
「ん?」
「今日は本当にありがとうございました。あの、ご迷惑でなければ、ご連絡先を教えていただけませんか? 改めてお礼を……」
「気ぃ使わなくていいって。オレがああいうのを見過ごせないタチなだけだし。あんたこそ災難だったな」
「あ……っ!」
ひらりと手を振ってから交番を出ると、改めて腕時計を見て時間を確認したユーリ。電光掲示板で次の電車がすぐということを知ると彼は足早に歩き始めた。
そして電車が到着してすぐのところで乗り込んだ後、一つ息を吐いてから少女のことを思い返した。
あの制服は別段興味のないユーリでも知っている、超名門女子高のものだった。確かに行動や言動の端々にお嬢様っぽいものがあったが、しかしお高くとまっているような感じはなく、一般基準から見ても素直に可愛い分類に入れておかしくない少女で。
(……ちと惜しかった、か?)
若く、特定の相手が居ない青年がふと思っても、おかしくはないよな、とユーリは内心で思ったのだった。