男は珍しく困惑していた。そう、珍しくもだ。
長年に渡り偽りの名で道化を演じてきた男は、その偽りの名で「生きる」ことを取り戻したせいか、大げさな動きをすることも多く――というか日常となっていて、感情の表現にも更に磨きが掛かった。
しかしそれでも喜怒哀楽の中でもどこにも位置しない「困惑」するということは滅多に無かった。
「えぇと…………、リタっち?」
「あによ」
明らかに目が据わっている様子に、男の口元が引き攣る。
頬は仄かに上気し、瞳は強い視線を向けるものの潤み、声はどこか艶やかで。
しかも身に纏うそれは、いつもの魔導士装束などではなく、どうにも頼りない薄手のキャミソールドレス。彼女の親友が作ったというそれは、本来その上にショートボレロを羽織るように着る物なのだが、どこかで脱いできたのだろうか、まろやかな肩が露になっている。
今宵のハルルはお祭り騒ぎだ。宿の部屋の中に居てさえ、外の喧騒が届くほど賑やかで。この街に住む少し皮肉屋な青年と天然で頑固な姫君夫婦と、青年が属するギルドの首領と所属するクリティア美女は、ハルルの樹の広場で他の住人達を交えて杯を進めているのだろうか。
男は、少し飲み過ぎたみたいです、と彼女の親友に笑顔で宿屋に連れて行くよう促され、常日頃から考えれば詐欺だ、と声を上げたくなるような大人しさで抱えて運ばれた少女を寝台に下ろして吐息を漏らしたところで思わぬ強さで腕を引かれたのだ。
視界がぐるりと回った後、背中に柔らかな寝台の感触。そして腹部に加重された重み。
その重みが、先ほどまで健やかに休んでいたと思われた少女だと気付いた時には、男に逃げ場は無かった。
「あのね、何て言うか……」
「どかないわよ」
どかないか、と問う前に宣言されてしまった。
男の上に馬乗りになるだけで完全に動きを封じた少女は、困惑などお構いなしに背を丸めて上体を近づけてくる。胸元に置かれた手の熱が、ふわりと届いた花の香りが男に抵抗を呼び起こさせたのか、阻止しようと両手で押し留めるように彼女の眼前を遮る。
「リタっちタンマ!!」
「いや」
「嫌って。今は酒の効果で違っても、後で正気に戻った時に後悔するのはリタっちなんだから」
「…………んか」
「はい?」
「後悔なんか、すると思うくらいなら、最初っから飲まない」
眉根を寄せて、掠れた声で答えた彼女に、男は言葉を失った。
「あたしは、あたしのやりたいようにやってる。それでも、酒飲んだ勢いじゃないとこうまで出来なかったのよ!」
潤んだ瞳の光が揺らぎ、今にも決壊しそうになっている。それでも限界でその状態を維持出来ているのは少女の意志力の成せる業だろう。一気に吐き出して、それから気持ちを抑えるように数度息を吐いて、それから彼女は眉を落とした。
「口で言っても駄目、押し倒しても駄目。ならあんたは、どうすればあたしに答えをくれるの?」
そして眼前に突き出された男の掌に顔を寄せ、口付けを落とす。
「リ、タ」
右手に、左手に、何度も触れては離れていく微かな熱。
そして最後とばかりに左手の約束を司る指の付け根に触れて離れた少女は、諦めたような表情を除かせて息を吐く。
しかしそれはすぐに、驚きのそれに変わった。
「………レイヴン?」
「あーもう、ここまでやられたら、もうお手上げ」
ぐい、と突き放されていたのが嘘のように力強く腕の中に引き込まれ、寝台に横になっている男の上に乗ったままに抱き締められた少女。寄せられた男の胸からは、定期的に、しかし平素よりは早いと思われる早さの鼓動が響いてくる。
「後悔、ほんとにしない?」
「するつもりならそもそも此処に居ない」
「まあねー、リタっちってそういう子だし。だから俺も、好きになったんだし」
ぽんぽんと頭を撫でながら言った男に、少女は少しだけ身を起こして男を見下ろした。
「言った?」
「言ったね〜。年の差とか自分のこととかで絶対言うつもりなんて無かったんだけど、言っちゃったねぇ」
「今更遅い。取り消し不可」
即切り返してくる鬼気迫る様子に男は苦笑しつつ、少女の頭に乗せられていた手を滑らせる。初めて出会った時よりも少し伸びた髪を梳くようにしながら、耳元まで落として。
「言うと思った。するつもりも無いけど」
「安心しなさい。あんたのことは、あんたの胸の魔導器込みで一生面倒見てやるわ」
「うわー、リタっちカッコいい〜。……でも、まあ、不束者だけど宜しくね」
「……誰かに聞かれたら、逆だって言われそうだけど。まあいいわ」
満足そうに強気に笑んだ少女に、男は穏やかに口元を持ち上げてそれから彼女の頬に手を添える。
「で、止めようとしといて何だけど」
「……何?」
「この続きは、あると思っていい所なのかと思って」
続き。その言葉に少女は頬を染め、しかし真っ直ぐに男を見つめたままで。逸らされない視線に少し安堵したような表情になった男は、少女の頬に触れているのとは反対の手――右手で細い手首を捕まえた。
少女の左手を眼前に引き寄せると、先程とは反対に今度は男から、掌への口付け。
「……意味、知ってたの?」
「おっさんはこれでも意外と博識なのよ」
「知ってる。見えないけど」
くすり、笑って少女は男に顔を近づけた。
「あたしに何か教えられることなんて、そうそう無いんだから有り難く思いなさい」
「そりゃもう。心得てますって」
男は少女がしたように彼女の左手の約束の指の付け根に懇願の口付けを。
そして近づいては離れてを繰り返してきた二人の距離が、ようやく無となった。