シェリアのピアノの演奏を聴き終えた後、二人は共に領主邸へと戻ってきた。すぐに戻ると出てきたが、思っていた以上に時間を置いてしまったこと、ソフィが心配していたというアスベルの言葉に彼女が自分から言い出したのだ。
重い扉を押し開けると、それに気付いたのだろうか歓談の輪から抜けたフレデリックが静かに歩み寄り、戻ってきたアスベルを迎えた。
「お帰りなさいませ、アスベル様」
「ああ、わざわざ済まない。今日はパスカル曰く『無礼講』なんだし、気を使わなくても良いぞ?」
「いえ、それはそれ、で御座います。それにお伝えしなければならないことも御座いますので」
そう言って、フレデリックはメイドの一人へ視線を向けた。心得ていたのだろうか、彼女は一礼した後に執務室へ入り、そしてさほどの間を置かずに何かを手にして戻ってきた。
フレデリックの少し後ろで足を止めたメイドの手には、銀のトレイ。その上には明らかに上質なものと見ただけで分かる封書が載せられている。
「デール公爵様からのご使者からお預かり致しました」
メイドからトレイを受け取ったフレデリックがアスベルの前に差し出すと、彼は封書に手を伸ばした。
アスベル・ラント、自分の名が記された封書を裏返せば、そこにはグレルサイドを現す印璽が押された封蝋。丁寧に開封し、中に納められていた紙面に目を通した青年は、一呼吸吐いてから取り出した時と同じように丁寧に紙面を封筒に納める。
「明日の午前には連絡港へ到着され、そこから亀車で向かわれるとのことだった。楽しんでいる所に済まないが、バリーに伝えてくれ。それから、誰かを迎えに――魔物との遭遇の可能性も考えれば一人は拙いな。必ず数人で港へ向かわせてくれ、と」
「畏まりました。併せて公爵様をお迎えするご用意も進めておきますが、宜しいですか?」
「ああ、任せる。――シェリア」
「は、はいっ」
いつもとは少し違う、真面目な姿を内心で驚きながら黙って見ていたシェリアは、不意に名を呼ばれて上ずった声で応じた。それに少し目を瞠り、小さく笑ったアスベルに気付いて頬を染めたシェリアは、しかしいつものようにすぐに文句を返したりせず彼の言葉を待つ。それまでのやり取りで察したからだ、これは「公」のことなのだと。
「先ほど陛下にもお伺いしたが、リチャード陛下のお体は問題無いと言うことで良いんだな?」
「ええ――、はい。お怪我は治療術で回復されていらっしゃいます。ただ、少しお疲れのご様子ですので、出来れば今日一日だけでは無く、もう一日はお休み頂く事が最善かと」
「そうか。陛下に公からのお返事をお伝えし、ご指示を仰いで来る。フレデリック、後を頼む。それからシェリア、有難う。今の話をそれとなく皆にも伝えておいてもらえるか?」
「え、あ、うん。分かったわ」
「じゃあ、また後で」
頷いて、踵を返した青年は客室へと向かって歩き出した。
その背をどこか呆然としながら見つめていたシェリアに、フレデリックがしみじみと声を掛ける。
「やはり親子でいらっしゃる。ご指示を伝える時のアストン様と雰囲気がそっくりだ。本当に、ご立派におなりで……」
「さっきは頑張らないと、って言ってたのに。何よ」
もう既に、領主として必要なものを持っているでは無いか。
やっと一歩先に進めたと思っていたのに、これでは相当頑張らなければ、その背中は遠くなるばかりだろう。
「シェリア。あの方の隣に立つのは、大変そうだぞ」
そんな言葉を呟くように言って離れた祖父に、残されたシェリアは分かっているわと内心で返した。
(それでも、私は)
既に人生の半分以上、想って来たのだ。
幼い頃には憧れ渇望しながらも、自分の状態からそれは自らの意思とは関係の無い所で断ち切られる物だと思っていたけれど。それもソフィのお陰で生を繋いだことで同じく繋がれたままで、あの頃では想像もしなかった軽い体で世界を飛び回ることさえ出来るようになった。
自分の出来ることを。そうしていつか戻ってきたその時こそ、ずっと願ってきた場所に立つ為の資格を得られるような気がするから。
(それで玉砕したら……、その時はその時ね)
それでもきっと、ずっと彼を想って生きていくのだろうけれど。
シェリアは僅かに自嘲を浮かべた後、綺麗にその痕跡を消してから仲間たちが集まっている方へと歩を進めた。
休んでいる所なのに申し訳ないと、臣下としての礼を持ってリチャードの休む客室へ入室したアスベルに、差し入れられた本を読んでいた彼は微笑で出迎えて楽にするように言った。
「アスベル、そう畏まらなくても良いよ」
「お言葉に甘える前にお話が。デール公から返信が御座いました。現在、バロニア港より出港した船に乗船中でいらっしゃいます。明日の朝には連絡港に、それから亀車でラントに向かわれ、午前中には到着されると」
「デール自身が向かっているのか」
「は。さすがにすぐにとは言わず、先に返信を持たせた使者を出すとありましたが。御自ら迎えに来られると、確かに」
「そう、か……」
安堵したような、嬉しそうな、そんな心情を滲ませた声が聞こえてきて、頭を下げていたアスベルも伏せた顔に微笑を浮かべる。
少しの間を置いて再び楽にするようにとリチャードの声が掛けられると、今度は逆らわずに素直に顔を上げて友人としての顔で笑いかけた。
「だから言っただろう、あの方なら、って」
「ああ。僕には、君たちだけでなく、彼のような人も居てくれたんだな……」
「今言ったが、デール公は明日の午前中には此方に到着される。それで帰還の時期なんだが」
それを口にすると、リチャードは少し悪戯っぽく笑いながら口を開く。
「それについては、僕の主治医の許可を得ないと」
「分かってる。だからその怖い主治医に意見も聞いてきた」
「アスベル、シェリアさんが聞いたら怒られるんじゃないか?」
雷を落とされても知らないよ、とくすくすと声を立てながら笑って言うリチャードに、アスベルは少しだけ視線を逸らしてから返した。
「ええと、怪我とかは問題無いけれど、体に溜まった疲労のことも考えて少なくとも明日一日は滞在した方が良いとのことだ」
「そうだね。王都に戻ればそれこそ休む暇は無いだろうし、そうさせてもらおう」
「あまり無茶はするなよ?」
「分かっているよ。倒れでもしたら皆に迷惑を掛けてしまうからね」
「そうじゃない。迷惑よりも心配を掛けるなって。シェリアは勿論だろうけど、ソフィにも怒られるぞ、『リチャード、無茶しちゃだめ』って」
その言葉に、上目遣いで睨みながら、けれど心配そうに言う少女の姿が想像出来て、リチャードは小さく笑う。
「それは、見てみたいけれど申し訳ないから、君の意見を容れるとしようかな」
「見てみたいけど、って」
「ふふ。とにかく、あと一日は大人しくしているとするよ」
「ああ、そうしてくれ。……それで、これは個人じゃなくて、ラント家の長子としての願いなんだが。お戻りの後、お忙しいことと承知の上で奏上申し上げる。どうか、私を正式にラント領の領主として任命くださるよう」
再び頭を下げた彼の言葉に、リチャードは僅かに目を瞠った後にそうかと頷いた。
「言われてみれば、そうだったね。アストン殿が急死され、その後すぐにストラタの進駐軍に街を抑えられて。僕が即位した後、あんなことになったから。君をラント伯爵領の主として任命の手続きは取っていなかったのだった」
「……、ちょ、ちょっと待ってくれ。伯爵って……!?」
リチャードの言葉に混じった聞きなれない単語に、思わず顔を上げたアスベル。驚きのその声と表情に、リチャードは小首を傾げる。
「爵位だが。……まさか、知らなかったのかい?」
「その、まさかだ。というか、本当にそうなのか?」
「嘘は言わないよ。けれど、そうだね。僕はアストン殿しか知らないけれど、父が君のお祖父さんや曾お祖父さんを知っていたようで、生真面目で領主の鑑だと。だからこそあの難しい土地をラント家に託しておけるのだと言っていたことがあるんだ。爵位はかつてラント領主に任命された折に叙されたものらしいけれど、代々の領主は貴族としての身分と爵位に驕らずに、土地を守り育てる者として居たのだと。だからこそラントは、この風の王国ウィンドルの中でも特に風の恵みを受けた土地なのかもしれない、とも。きっと、誰もが知っていて、けれどそれはそう大きなことで無いのかもしれない」
君が知らないのは、知る前にラントを出たからなのかもしれないね、と付け加えたリチャードに、アスベルは肩を落とした。
「そんな大事なことを知らなかったなんて……」
「けれど、領主が王に任命されるものということは知っていたのだろう? 国には大小様々な領地があるけれど、ラント領は国境に面し、内海への港をも持つ重要な土地だし、広さも充分だ。そもそも爵位は領地に応じているのだし、……騎士学校では学ばなかったのかい?」
「教養の授業でやった。あの後、少し皆の視線を感じると思ってたんだが……そういうことだからなのか?」
アスベルにとってはラント領主とは街を動かすその命令を下すものという印象が強く、ましてや子供時代は勉強嫌いだったのだ。彼の中で完全にイコールで成り立たない事を、例え知識として得たとしても、まず分かるわけが無い。
それに騎士学校に入学した時から、何もかも関係ない一個人として学ぶ生徒として遇されるのだ。そこには先輩と後輩の力関係は存在していても、身分の差というそれは無かった。アスベル自身、そういう考えが希薄だったのもあるのだろうが。
「アスベル。君の申し出を受けようと思う。ただ、少し今と違ってしまうけれど」
「…………どういうことだ?」
「ラント領は北端は国境に面し、西端は内海への港を持ち、そして東端は王都へ接する。今さっきも言ったけれど、とても重要な土地だ」
「ああ」
「まだ何とも言えないけれど、君の話を聞く限り、これから世界は開かれたものとなるのだろう。そうなると、その重要度は更に大きくなる。北端はフェンデルへの、西端の港はストラタへの玄関口として。二国への玄関口を持つ土地となるんだ、ラントは」
リチャードは、今正に言葉の意を咀嚼しているアスベルにこう告げた。
「僕の一存では無理だが、デールの後押しがあれば問題ないだろう。アスベル、僕はラントを公爵領とし、君をその領主に任命したいと思う」
「は……、いや、まさか」
「冗談では無い」
一国を預かる国主としての顔で、戸惑う青年の言葉を両断した彼は続ける。
「友を出汁にしたくは無いけれど、それでも君は二国の国家元首と繋がりがある。今後の外交を考えれば、時に僕の名代として使者として立ってもらいたいとも思っている。それに王への意見もしやすくなるだろう。時に助ける者として、時に諌める者として、そう在って欲しいと思うんだ。それに、これは疑心から言うのでは無いけれど……大公が亡き今、この国でそれに並べてもおかしくない公爵位を持っていたデールが王の次に居ることになる。あまりにも一極集中なんだよ。これでは幾らデールが民の信頼が厚くとも、彼ばかりと取られかねない」
「………………けれど、デール公では無い誰かがもう一人、彼に並ぶ立場となる爵位を持てば」
「そういうことだね。勿論、君を妬む者も出てくるだろう。嫌な思いもするだろう。揮える裁量が増す分、負担も大きくなる。――それでも」
どうか。
王として、友として、二つの立場から願ったリチャードの言葉に、アスベルはその二色の瞳を一度瞼を落として隠す。
そしてしばしの瞑目の後、再び瞳を開いた彼は、友であり、主君でもある金の髪の青年を決然とした瞳で見つめ、口を開いた。