「お大事になさってくださいね」
頭を下げる患者に微笑と共に声を掛け、診察室を出ていく後ろ姿を見送ったジュードはデスクの上のカルテに数行を追記して、傍らの看護師にそれを渡した。
「それじゃあプランさん、宜しくお願いします」
「はい、確かに。お疲れ様でした、ジュード先生。これからお休みなんですよね?」
カルテを受け取った看護師のプランは、この若い医師の予定を思い出しながらそう尋ねる。
「ええ。久しぶりに源霊匣の研究関連じゃない、純粋な休暇です。もうすぐ……ですから」
言って、彼が視線を向けた先にはカレンダー。
「そう、でしたね」
プランは静かに頷いた。
数日後に訪れるその日は、リーゼ・マクシアが殻を破った日。
「あれから、三年か……。あっという間だったな……」
「ジュード先生はタリム医学校に戻られてから、学生として、医師として、研究者として大忙しでしたものね」
「ええ。正直戻ってから数か月のあの忙しさは、あまり思い出したく無いですよ……」
正式にスパイでないことが公布され、医学生として復帰する権利を得たジュードは、足りていなかった単位と実務研修、そして卒業試験の為にそれこそ分単位で予定をこなして卒業の資格を手にしたのだ。
無事に医学生という立場から新米とは言え正式な医者へとなった彼は、日々の職務に加えて源霊匣の研究も始め……、まだ三年も経っていないものの、最近では多くの人に認知されて普及の為の支援の輪も大きくなって来ている。
「あれからずっとイル・ファンとカン・バルクの往復ばかりでしたし、久しぶりに故郷でゆっくりして来ます」
デスクチェアーから立ち上がり、軽く首を回したジュードの言葉に優秀な看護師である彼女は微笑と共に頷いた。
「ル・ロンドへお帰りになるのですね。では、レイアさんに宜しくお伝えください。あと手紙をいつも有難うございます、とも」
「分かりました。それじゃあ、先に失礼しますね」
「はい。お疲れ様でした、ジュード先生」
診察室を出ると、廊下のベンチに座って待っている見知った患者から時折声を掛けられる。それに時折立ち止まって返答しながら外来受付を通り過ぎて、職員のロッカー室に入ると白衣を脱いで普段着へと着替えた。
今朝、職員寮を出て来る時に支度はして来たから、後は海停に直行してル・ロンド行きの最終便に乗るだけだ。
荷物を手にタリム医学校から出たジュードは、段々と日が傾いて来ている空を見上げて少し歩調を速めた。どうやら診察室を出てから挨拶で足を止めていた為、予定よりも遅くなっていたらしい。
「遅れたら文句言われるんだろうなぁ……」
ジュードが乗船予定の舟は、今日のル・ロンド行き最終便である。それを逃せば当然、次の船は明日となってしまう。ようやく予定が調整出来た後に「この日に帰るから」とシルフモドキに手紙を託して送った後、すぐに帰って来た返事のことを思い出してジュードは小さく笑った。
「絶対!? 絶対だからね! って、本当にレイアらしいや」
「だよなぁ。ま、それだけ待ちわびてたってことだろ」
「……!? ア、アルヴィン!?」
「よ、優等生。って、違うか。もう学生じゃなくてお医者先生だし、先生か」
に、と笑って驚愕の表情で見上げるジュードとの距離を詰めた男は、しげしげと彼を見下ろして言う。
「また伸びたか?」
「え? うん。今、178cmかな。前にアルヴィンと会った時より、5cm伸びたよ」
「半年も経たない内に5cmとは、さすが成長期」
「まだ時々、節々が痛くなるし……もう少し伸びるんじゃないかな? もしかしたら、アルヴィンを追い越しちゃうかも?」
見上げる視線の角度が前回と違うことを意識したジュードは、小さく笑いながら答えた。
「あーあ、あの頃のジュード君はちょうど良い具合だったのになぁ。今は」
「っ、と。何するんだよ、アルヴィン」
「こうして抱え込むと顔が近いんだよ。……一気に老け込んだ気がして嫌になるね」
「そんなこと言われても。アルヴィンまだ二十代でしょ? 老け込むのは早いと思うけど……」
「まだ、とか言うなコラ。ったく、お前、間違ってもレイアに会って『老けた』とか言うなよ」
「言わないよ、そんなこと」
「いーや。そういうことにどこか抜けてるジュード君なら、呆けた後に焦って誤魔化してぽろっと言っちまいそうだ」
呆ける?
アルヴィンの言葉に不思議そうに小首を傾げたジュードに、年上の男はやれやれと両手を上げて肩を竦めながら首を緩く振る。
「ま、おしゃべりはこの辺にしといて、そろそろ行かないと本当に文句言われる羽目になるぞ」
「うわっ、ちょ、待ってよアルヴィン!」
どんっ、と背中を押されてよろめいたジュードは、横を掛け抜けた影に気付いて遠ざかるその距離を縮めようと駆けだした。
そう経たない内に追いつくと、そこは既にイル・ファンの海停前。乗り場の向こうに見える船影を確認して、彼は安堵の吐息を漏らす。
「図体がでかくなってもパーティ一の俊足は衰えず、か」
「医者と研究の両立はアルヴィンが思ってるより体力仕事だよ。僕はまだ助手だけど、難しい手術の助手に入った時なんて何時間も立ちっぱなしなんて良くあることだし。時間がある時にはストレッチも兼ねて稽古をしてるんだ」
じゃないとル・ロンドに帰った時に師匠に怒られるし、レイアにまた棍でボコボコにされちゃうからね。
苦笑を浮かべる彼だが、しかしその瞳は大切な物を思い出すように柔らかく眇められている。そんなジュードの表情を見て、アルヴィンは溜息を漏らした。
「ほんと、どうにかならないもんかね」
「え? 何か言った、アルヴィン?」
「いや、別に? そろそろ出港みたいだし、さっさと乗ろうぜジュード君」
「う、うん。そうだね」
船賃を渡して柵で区切られた船の停泊する埠頭に入った二人は、乗船する為に出来た人の列を目指し、その最後尾に並ぶ。
「けど、アルヴィンとイル・ファンで一緒になるとは思わなかったな」
「カラハ・シャールとイル・ファンに用事があってな。どっちが先でも良かったんだけど、イル・ファンは町に海停があるから船にすぐ乗れるだろ」
その言葉に、確かにと頷くジュード。カラハ・シャールの東にサマンガン海停はあるが、その間には魔物も出現するサマンガン街道が存在している。幾ら旅慣れたアルヴィンであっても、他に容易に向かえる場所があるのに、わざわざ面倒な旅路を行こうとは思わない。
「ところでお前さん、この三年はイル・ファンとカン・バルクの往復しかしてないんじゃないか?」
「え? えぇと、確か二年前にカラハ・シャールに一度行ったけど……。うん、源霊匣研究の定期報告でカン・バルクに行くくらいかな、イル・ファン以外の場所に行ったのは」
「じゃあ、ローエンの爺さんには頻繁に会ってるのか」
「うん。後進の教育は大変です、って言いながら、定期報告の時には必ず聞いてくれてるからね。次に会ってるのがアルヴィンかな」
何だかんだとイル・ファンに用事があって時間が合えば、顔を出して研究室に篭りがちなジュードを、飲みに付き合え――勿論、未成年のジュードはノンアルコール飲料でだが――と連れ出されるのだ。
「本当に三年会って無かった、ってか」
「え?」
「レイアと」
「そうだね。手紙はやり取りしてたけど……」
看護師を辞め、実家の宿を手伝っている幼馴染。料理上手の父ウォーロックに本格的に料理を習い、旅をしている頃よりも格段に腕が上がったから楽しみにしているように、と一番最近の手紙に書いてあったことをジュードは思い出す。
「なぁ優等生、一つ賭けないか?」
「賭け? 何を賭けるの?」
「お前さんがレイアを見て、言葉も出ないくらい驚くかどうか、だな」
その内容にジュードは首を傾げて男を見た。
「何それ。確かに三年ぶりになるけど、驚くって……」
「じゃ、優等生は驚かないってことだな。俺は驚く方だし、賭けは成立ってことで。あ、俺が勝ったら今度、ハイファンのバーで奢れよ」
「ちょ、ま、待ってよ!」
「驚かないんだろ? ほら、行くぞ」
「アルヴィン! もう……」
はぁ、と溜息を吐いて先に歩き出した男を追ったジュードは、ちなみに、と少し上から聞こえた声に視線を上げてアルヴィンを見た。
「俺はこのスカーフとコートを賭けても良いぞ」
自身の身に着けているスカーフの端を持って、ひらひらと見せるように振ったアルヴィンの言葉に、ジュードは瞳を大きく開く。
お気に入りなのだと、旅をしている時に聞いた時から変わず、同じブランドのスカーフを愛用している男を知っているからこそ、それを賭けるとはそれほどまでに自信があるということなのかと。
幼馴染はそれほどに変わってしまったのだろうか、三年間顔を合わせていないジュードは、旅を終えてル・ロンドに帰ることになった時の幼馴染の顔を思い出しながら、アルヴィンに続いて故郷へ向かう船へと乗り込んだ。
イル・ファン海停を出航した船は、王都北の海上に浮かぶ島を目指した。
鉱山と海停の街は、現在、イル・ファンとア・ジュールの間にある街として二国間の人々が行き交うことで昔よりも賑わっている。
レイアの手紙やアルヴィンの話から、賑やかになったという話は聞いていたものの、実際に見ると驚くものだとジュードは船の上からル・ロンド海停を見下ろして思っていた。
陽は大きく傾き、断界殻[の消失後に偏った霊勢変化が無くなったリーゼ・マクシア。青空と星空の境界にある街であったル・ロンドだったが、今は昼でなければ青空は見えず、夜でなければ星空は見えない。
見慣れているようで、見慣れない故郷に三年ぶりに降り立ったジュードは、周囲を見回した。
出迎えに行くから、と手紙にあった通りであれば幼馴染が居る筈である。
すると人々の行き交う間に、見覚えのある服装を見つけた。
「アルヴィン、あっちみたい」
「ん? ああ、居たな」
人と人の間を縫うように進み、流れを抜ける為に小走りになったジュードは幼馴染の名を呼んだ。
「レイア!」
その声に、柱に寄りかかって俯きがちでいた彼女は、顔を上げて青年の方へと視線を向けた。
そして琥珀と翠緑の瞳が三年ぶりに互いを映す。
「レイ、ア……?」
記憶よりも少し伸びた髪、面影は勿論あるものの、ぐっと大人びた顔。しなやかに伸びた腕が潮風に揺れた髪を抑えて、頬に掛かった一筋を細い指が払う。
見慣れた、けれど見慣れない。先ほど、船の上から故郷を見た時以上の衝撃。
「ジュード?」
「…………」
「ジュードってば!」
「うわぁっ!?」
「な、何よ、もう。久しぶりに会った幼馴染に対して会うなりそれ? あ、アルヴィン君!」
一歩距離を詰めたレイアに、慌てて二倍の距離を飛び退るジュード。幼馴染の奇行に彼女は眉を寄せて文句を言ったが、その後ろにもう一人見つけて笑顔になった。
「よ、相変わらず元気だな」
「そりゃそうだよ。今日は午後からお休みだったし、宿泊処ロランド自慢の看板娘は宿の外でも元気で居なくちゃイメージダウンでしょ?」
ぱんっ、と上げた手を合わせて打ち鳴らした二人は、笑顔でここ最近の出来事を互いに話し出す。
何故か一歩を踏み出して声を掛けることを躊躇い、その様子を――正確には幼馴染の姿を言葉も無く見つめていたジュードは、少し離れている、そんな距離が、まるで自分とレイアの間に出来た距離のようだ、と思った。