ペット エンドマークの向こう側〜終わりから始まる〜―4.名前のない気持ち



 霞む視界に文字を追っていた視線を紙面から外し、瞼を落として目元をほぐすように揉む。
 椅子の背もたれに体重を預けると、深い溜息が漏れた。
 あの衝撃的な夜から三日間、ジュードは黙々と実家で手伝いをしたり、源霊匣[オリジン]の研究に打ち込んだり、という一日を過ごしていた。その間、宿泊処ロランドには一度も足を向けていない。
 正確には「向けられない」と言った方が正しいかもしれない。
 ――おやすみ、忘れてね。
 そう彼女は言っていた。きっと、ジュードが宿泊処ロランドを訪れても、いつもの笑顔で彼を迎えてくれるのだろう。
 憂いの無い、見慣れた「幼馴染」を迎える笑顔で。
 そして青年の心の裡には、また一つ、消えない「何か」が降り積もるのだ。
 胸元に置いた手にぐっ、と力が込められる。
 この三日、あの夜のことを思う度に体が冷えたように固まって、胸を掻き毟りたくなるような言い様の無い衝動に襲われる。
「……っ」
 ほんの一瞬、けれどとても長く感じるその瞬間が過ぎ去ると、ジュードは詰めていた息を吐き出して、組んだ手に額を乗せるように顔を伏せた。
 すると、胸元に入れていたペンダントが視界の中で揺れるのが見えた。青いガラス玉をトップにしたそれは、三年前の旅で貰った大切な想い出の品だ。
「ミラ……」
 紅玉を填め込んだような瞳の、金の長い髪を背に流して立つ姿が脳裏に浮かんで消える。
 指を絡めて握り締めた手の感触が空気に溶けて消えるように無くなった、それが彼女を感じた最後だった。
 その手の感触は今でも忘れられないのに、けれど、今、どうしようも無く幼馴染の言葉がジュードの内に焼きついて消えない。
 ――わたしの初恋は、ジュードだったよ。
 どうしてこんなにも心が冷えるのだろう。
 疑問に思う心のどこかに、その問いへの解答など見つからなくて良いと思う気持ちもある。
 見つかったその時に、何かが終わってしまうような、未知への恐れがあって。
「……ド、……ジュード!」
「っ!? な、何!?」
 顔を上げると、そこには母の姿。
 びっくりした様子の息子を見て、エリンは小さく溜息を吐いた。
「ジュード、あなたここ最近根を詰めすぎよ」
「……分かってるよ」
「此処へは休暇に帰って来たんでしょうに」
「母さん、小言を聞かせに来たの?」
 診察の最中なら兎も角、此処は自室だ。ジュードは小さく溜息を吐いて母に言うと、彼女は首を振って言う。
「いいえ、アルヴィンさんが来ているから知らせによ」
「アルヴィンが?」
「ええ」
 どうぞ、と肩越しに振り向いたエリンの声に、長身の男が顔を覗かせた。
「よ」
 仕事に戻るわね、と部屋を出る母と入れ違いに入って来たアルヴィンは、書棚にびっしりと本が並んだジュードの私室を興味深そうに眺めた後、青年を見て言う。
「随分とお疲れさんの様子だな、若先生」
「アルヴィン……。それ嫌味?」
「違うって。ここ数日篭ってるジュード君にお知らせ。今日、エリーゼ姫とローエンの爺さんがこっちに到着するってさ。で、一緒に出迎えに行こう、ってレイアが言ってた」
 レイアが言ってた、との男の言葉に、ジュードは軽く眉根を寄せながら口を開いた。
「何でアルヴィンが……」
「レイアは仕事中。で、俺は休暇中で自由の身。おまけに、さっきも言ったけど誰かさんはここ数日顔を見せないもんだから、伝言を頼まれたわけ」
「……そう」
 視線を外した青年に、アルヴィンはそ知らぬ様子でこう続ける。
「それに、二日前から泊まってる客がレイアを熱心に口説いてて、姿を見ると中々離れないから、余計に出られないからってのもあるな。何とかして追いかけるから、二人で先に行ってて、だとさ」
 すると、カタリ、と小さな音がした。視線を向けたアルヴィンは、どことなく据わった目をしているジュードの様子に、恐る恐る呼びかけた。
「ジュード君……?」
「レイアは、まだ家に居るんだよね?」
「あ、ああ」
「そう」
 頷いたアルヴィンの答えに、ジュードは軽く返してから静かに足を踏み出した。思わず体を避けて進路を開けたアルヴィンは、ジュードの背が部屋から出た所で慌てて後を追う。
 入口にある受付の前で、母に少し出てくると告げている青年を見つけると、足早に追いかけた。
 マティス治療院を出たアルヴィンは、海停へと向かう緩い下り坂へ視線を向けた後、ボルテア森道へ出る上り坂へ視線を返し、宿泊処ロランドへ向かう後ろ姿を見つけて駆け出した。
「お、おい、ジュード君!」
「どうしたの、アルヴィン?」
 入口の前で追いついたアルヴィンの呼びかけに、振り返ったジュードは不思議そうに男を見上げる。
「いや、どうしたの、ってな」
「悪いけど少し後にしてもらえるかな。エリーゼとローエンの迎えに間に合わなくなっちゃうでしょ」
 言って、宿泊処ロランドの入口に手を掛けたジュードはごく自然に戸を引いて開いた。
「あら、ジュード」
「こんにちは、師匠。レイアは?」
 尋ねながら周囲に視線を走らせたジュードに、ソニアは二階へと視線を向ける。
 レイアの私室の前にある二つの影。そしてその一方の手が、幼馴染の肩に掛かっているのを見て、ジュードはすたすたと歩を進めて階段を上りながら彼女を呼んだ。
「レイア」
「ジュード!」
「何だ、お前は。邪魔をするな!」
 二十代半ばの男はジュードを見てそう吐き捨てたが、彼は意に介した様子も無く、穏やかな表情で口を開いた。
「申し訳ないけれど、こちらが先約なので」
「お前。俺はカラハ・シャールでも指折りのディルス家の跡取りだぞ。先約だが何だか知らんが……!」
「ルース商会のアラート・ディルスさん、ですよねお父上は。お元気ですか? イル・ファンにいらっしゃる度に診察をさせて頂いている主治医なんですけれど」
 にこやかに尋ねたジュードに、恫喝するように家の名を出した男は、若干慄いたように言った。
「お……、貴方が、マティス先生……。うちの、以前からの……」
「ええ。三年前に旅をしていた頃から、とても良く使わせて頂いてます。来月またお父上とは診察の時にお会いするので、貴方と故郷でお会いしたことをお話しておきますね。彼女も知り合いなので、きっと懐かしいと聞いてくれるでしょうから」
 ジュード達とその商会は、ドロッセルを介して知り合った。色々と偶然も重なり、良くその商会を利用していたジュード達一行は、かなりの得意客となっていたのだ。当然、この話も含めて聞いていたのだろう、男は最も大事な得意客を相手に脅すような態度を取ってしまったことに気づき、少し前とは打って変わって青ざめたような顔になった。
「それで、こちらの約束を優先しても?」
 静かに問いかけたジュードに、男は言葉無く頷いた。
 それを見てから彼はレイアに向かって手を差し出す。
「行こう、二人の迎えに間に合わなくなるよ」
「え、あ……」
 ちらりと先ほどまで自分の行く手を阻んでいた男を見遣り、その横をおずおずと通り過ぎたレイアは、差し出された手に戸惑いながら己のそれを重ねた。
 遠慮がちに乗せられた手が逃れないように、反射的に握り込んだジュード。思いのほか力強く握られ、頬を赤らめるレイア。
 そうして手を繋いだまま階段を下りると、ジュードはどことなく呆気に取られた表情のソニアの前で足を止める。
「師匠、済みませんが少しレイアを借りて行きますね」
「ああ……、まあ休憩ももうすぐだったしね、構わないよ。行っといで」
「有難う御座います」
「え、えぇと、行って来ます……」
 決して強引にでは無く、けれど手を引くその力に自然と進む足。無言で自分の一歩前を歩くジュードと、二人の様子を見て冷やかし混じりに声を掛けてくる知人に戸惑いながら、緩やかに下る坂道を歩いていたレイアは、海停の入口でようやく止まった足に小さく息を吐いた。
「何で」
「え?」
「何で、はっきりと用事があるって言わないの」
 細い肩に手を掛けられた様子が思い浮かび、無意識に口調が硬くなった。
「だって、お客様だもん。失礼は出来ないでしょ?」
「幾ら客だからって、一定の距離以上は踏み込ませるべきじゃない」
 得意なのは根術とは言え、同じ師匠の下で護身術を選んだ身だ。無手でもそこらの者などは簡単に相手に出来る力量があるレイアを知っているジュードは、何故簡単に手出しを許したのかと思いながら言う。
「それくらい分かってる。……でもそれはわたしの問題で、ジュードには関係無いよ」
「関係、無いって……。僕は」
「幼馴染として心配してくれるのは有り難いけど、これ以上は口出し無用。わたしなんかのことより、ミラの為に源霊匣[オリジン]を普及させることに時間を使って」
 そして、やんわりとジュードの手を解いたレイアは、波止場に近づく船影を見つけて、先に行ってるね、と駆け出した。
 その後ろ姿を呆然と見送っていたジュードの隣に、追いついたアルヴィンが並び立つ。
「……なんて顔してんだ」
 自分の顔を見て溜息混じりに零した男に、ジュードは離された左手に視線を落としながら言った。
「まだ、分からないんだ……」
 数日前にアルヴィンに問われたことも、この数日間の自分のことも。
「分からないんじゃなくて、分かりたくないような顔してるけどな」
 ぽん、と頭の上に置かれた大きな手の感触を感じながら、ジュードは男の言葉に頷く。
「……そうかもしれない」
 左手から融けるように消えた「彼女」の手の感触は、ずっと消えない切なさという痛みを残した。
 けれど今、ジュードの胸に冷たく刺すような痛みを残すのは、するりと解いて逃れた「彼女」の手の感触だった。


名前のない気持
名前がついたその時に、「何か」が終わる、そんな確信にも似た予感と未知を恐れる気持ちがあって。
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[脱稿:11'11.6 掲載:11'11.7]


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