断界殻があった頃には昼間にも見れたが、霊勢変化が無くなった今は夜にしか見られなくなった故郷の星空。
夕食の後に、次の論文の為の資料を読み込み数時間、固まった体を解す為と日頃の習慣から軽い走り込みをしてきたジュードは、足を止めて軽く上がった息を整えるように深呼吸をした。
じんわり滲んだ汗と温まった体に、夜の涼を含んだ空気が心地良い。時折頬を撫ぜて行く風は、ここ数日ですっかり久しぶりという感覚も抜けた潮の匂いを含んでいる。
すっかり呼吸も落ち着くと、夜も遅いし戻ろうと歩を進め出した青年だったが、その足は自宅に辿り着く手前で止まることになった。
(あれ……?)
ル・ロンドの夜はイル・ファンよりもずっと静かだ。
街の規模や特性も関係しているのだろうが、普段イル・ファンではまだまだ賑やかなその時間には、故郷の街は夜の闇に包まれる。
街灯樹が無い為、明かりと言えば月と星という中、その灯りは夜闇に目立っていた。
宿泊処ロランドの二階、一番奥の部屋。間取りの関係で客室に出来なかったというその部屋は物置として使用されていたが、レイアが十歳になった頃から彼女の私室となり、以来ずっと変わっていない。
その部屋のある辺りにぼんやりと浮かぶ灯。
こんな時間にまだ起きているのだろうか、と自分のことを余所にそんなことを思っていたジュードは、灯りがふと翳ったことに気づいて自分も休もうと歩を進めようとしたが、足は一歩を踏む前に地面に降ろされた。
カタカタと小さな音を立てて開かれた部屋の窓。
その窓から顔を覗かせた部屋の主は、窓枠に両肘をつくように頬杖をして夜空を見上げる。
ヘッドドレスも取り、寝巻きに着替えた彼女の姿は昼間とはまた違った雰囲気だ。夜空を見上げるその表情は、どこか遠くを見つめるような――まるで「誰か」を想うようなそれ。
(誰、なんだろう)
幼馴染の話は、故郷に帰る船の上でアルヴィンの口から幾度と無く聞かされた。
らしいと思わず笑ってしまうような失敗や、微笑ましい行動は勿論、年頃なのだから彼女にそういう話があっても可笑しく無いというのに、幼馴染にはどこか縁遠いと思っていた恋愛に関する話も。
曰く、イル・ファンへ向かう途中で立ち寄ったア・ジュールの将来有望な青年幹部に告白された、だの。ラ・シュガルの有名な豪商の一人息子が商談の途中でル・ロンドに立ち寄った際に見初めた、だの。
一体、自分にどんな反応を期待しているんだとばかりに数々の「求婚者達」の話を語って聞かせたアルヴィンは、最後に何気なく尋ねた。
――お前は、どう思う?
と。
その時、確かこんな風に返したはずだ。
――十八歳なんだし、そういう話が出てもおかしく無いんじゃない。
田舎町のル・ロンドでは、都会のイル・ファンと違って結婚適齢期が低い。それは働いて自立しているかどうかの違いなのだろうが、十八歳になると既婚者が目に見えて多くなってくる。現に、故郷の同年代の知り合いの何組かはこの二年辺りで結婚しているのだ。
だからこそ、その時はあまり考えずに返した。
けれど今、同じことを尋ねられた時、その時と同じようにさらりと同じことを返せるのだろうか。
そんなことを自問した時だった。
ふと上げた目線の、その視界の端に動くものを捉え、ジュードは反射的にそちらへと目を向けた。移った視線の先には、ひらひらと手を振る幼馴染の姿。
彼が気づいたことに彼女も気づいたのだろう、手を振る仕種が招くそれへと変わる。
僅かに逡巡したものの、しっかり目が合った後なのだ、気づかない振りで立ち去ることはさすがに難しい。ジュードは小さな吐息を漏らしてから、止めていた足を踏み出した。
窓の下に歩み寄ると、今度はその傍にある木を指差すレイアに、青年は大きく溜息を漏らしながらも木の幹に手を掛けた。ある程度の高さまで昇ると、手を枝に掛け、逆上がりの要領で枝の上に上がる。
「はぁ……」
「あはは、ごめんごめん、ちょっと眠れなくって起きてたらジュードを見つけたから。ジュードはどうしたの?」
「少し走って来たんだ。その帰り」
「こんな時間に?」
「論文の資料を読んでたら遅くなったけど、いつものことだし」
いつものこと、という言葉にレイアは軽く眉根を寄せた。
「それって、イル・ファンでも同じってこと? 忙しいのは分かるけど、そんなんじゃ鍛錬以前に体に良くないよ。健康的な生活には睡眠は欠かせないんだし。患者さんに言ってるジュードが守れないんじゃ、説得力が低くなるよ」
「分かってるよ。でも、源霊匣[の研究をしてると時間を忘れることが多くて……」
「そ、っか……。でも、無理は禁物だからね!」
「うん。無理して倒れる時間も惜しいからね」
「……それじゃあ、本当は帰って来たく無かった?」
その問いに、ジュードは首を横に振る。
「いや。そんなことは無いよ。父さんと直接意見を交わせるのは有意義な時間だし、何より皆に会いたいと思ったのは嘘じゃないから」
そして、ふと会話が途切れた。
さわさわとそよ風に揺れる葉擦れの音と、遠くから聞こえてくる鳥の声。静かな夜に生まれた、どこか落ち着かない沈黙の空間を破るように、ジュードはそう言えば、と口を開く。
「ル・ロンドに帰ってくる船で、アルヴィンから聞いたんだけど……。レイア、求婚された、って……本当?」
「アルヴィン君が話したの? はぁ……、まあ、近所のおばちゃんでも知ってる話だから良いけど」
本当、と彼女は溜息を吐きながら頷いた。
「……好きな人は居ないの?」
その問いにレイアは曖昧に笑う。思わず尋ねたジュードが、その表情を見て、ごめんと言葉を取り消す前に彼女は同じ問いを返す。
「ジュードは?」
「え……」
「ミラ」
「ええと……」
そうでしょ、と問われた彼は苦く笑みながら言葉を濁す。
「初恋、だよね?」
更に問われて、ジュードは頷いた。
「初恋は叶わないもの、って。良く言ったものだよね」
お互いの貫くべき信念を、互いが誰よりも理解していた。だからこそ、想いを伝えるという選択肢は、あの時には無かった。
ジュードが自嘲気味に零すと、その言葉にレイアは頷いた。
「そうだね」
視線を空に向けて、まるで自分もそうだったとでも言うような彼女に、青年は思わず尋ねる。
「レイアも、そうだったの……?」
ジュードの問いにレイアは瞳を瞬いた後、苦笑気味にこう言った。
「終わったことだから、今は新しい恋をしてるの」
何も言えずに居たジュードだが、夜風にふるりと肩を震わせたレイアに気づき、口を開く。
「……そろそろ戻るよ」
「うん」
腰掛けていた枝から地面へと軽やかに降り立ったジュードは、上から降ってきたレイアの声に顔を上げた。
「ジュード、あのね」
「……何?」
「わたしの初恋は、ジュードだったよ」
何気なく言葉にされた幼馴染のその告白に、青年は目を瞠る。
真ん丸になった琥珀の瞳に気づきながら、レイアはこう続けた。
「おやすみ。忘れてね」
そうして窓の内側に顔を引っ込めた彼女。
その様子を呆然と見ていたジュードの脳裏に、苦笑と共に告げられたレイアの言葉が響いた。
――終わったことだから、今は新しい恋をしてるの。
胸が酷く冷えるような気持ちになったのは、走り込みで汗ばんだ体が夜風に冷えたわけでは無い。
――わたしの初恋は、ジュードだったよ。
きっとそれは、自分への「想い」が過去形で語られていたから。