ダングレストを発った翌日。一行は霧の中、ユウマンジュへと降り立った。知る人ぞ知る、というのは今でも変わらない。あの旅の最中に無料で出入り出来る権利を得ている一行は、この温泉郷で一日を過ごすこととなった。
「あの人から噂は聞いていたけど、まさか自分が来ることになるとは思っていなかったわ」
感慨深げに呟いて、湯煙の中ぐるりと周囲を見回した彼女は、共に露天風呂に浸かっている少女へ視線を向ける。
「エステルさんはもう何度も来たことがあるのよね?」
「え、あ、はい。旅の最中に」
「羨ましいわ。噂になるだけあって、体に良さそうだもの」
手の平で掬った湯を肩にかけ、カタリナは一つ息を吐いてから腰を上げて淵に座る。タオルを巻いた上からゆるりと大きなお腹を撫でる仕草に、戸惑い気味だったエステルも心配そうに尋ねた。
「あの、大丈夫です?」
「ええ。のぼせないようにしているだけだから」
「赤ちゃん、です?」
「ふふ、そうね。あんまり長湯してたら暑いってお腹を蹴るかもしれないわ。……あら、やっぱり暑いみたい」
蹴ったわ、と笑う彼女にエステルは上手く言葉を返せずに小首を傾げる。
「……聞きたいことでもある?」
「え……」
「これでも人の表情から考えていることを読み取るのは上手いのよ。そうでなきゃ仕事にならなかったもの。昔はそれすら嫌悪の対象だったけど、今は今で日常生活で役立つこともあるから開き直っているけれど」
小さく肩を竦め、それからふるりと体を震わせた彼女は再び湯の中に。
「ユーリさん、とは昔、仕事の関係でね。まだ騎士団の頃だった」
「あの……」
「だからいつも騎士様か貴方、って呼んでいたわ。名前を知ったのは彼が騎士団を辞めた後、下町の有名人ってことで耳にして。この依頼で、五年ぶりに会ったくらいよ」
エステルの不安などお見通しのように、カタリナは何でも無いことのように語ってみせた。そしてふと表情を改め、エステルに言う。
「詳しいことが聞きたければ、ユーリさんに。これ以上は私から語るべきことじゃないもの」
「カタリナ、さん」
「色々あって、それからあの人……夫と出会って、もうすぐこの子にも会える。気になる心理は分かるけれど、今の私は夫一筋ですもの。それはまあ、正直に言うと昔は憧れていたけれど。愛しているのはあの人と、それからこの子だけ」
だから安心して頂戴ね、と笑った彼女にエステルは曖昧に笑みを返した。
「彼が気遣ってくれているのは、依頼人ということと、臨月間近の妊婦ということと、あとは私が子供を産めないと言われていたことを知っているからよ」
「え……? でも、カタリナさん、今……」
「そうよ。こうしてここに、夫との子供がいる。夫は私の体のことを知ってそれでも私を妻にしてくれた優しい人で、二人で生きていくことも充分幸せだったけれど、分かったその時、ようやくこの世に自分が生まれてきた意味があったと思ったくらい、夢物語の中の幻想だった幸せが手の中にある奇跡を感謝した」
「奇跡……」
ええ、とカタリナは頷いた。瞼を落として両手で包み込むようにお腹に手を当て微笑むその姿は、思わず息をも止めてしまう美しさ。慈愛と母性がそのまま顕れたような彼女に、それ以上何も言えずに開いた口を閉じるエステル。
と、ガラガラと引き戸が開く音が響く。続いて足音が近づいてきて、新たに現れたのは、ジュディスだった。彼女は二人の様子を見て、いつもの微笑を崩さぬままに口を開く。
「あら、お邪魔だった?」
「いいえ、そんなことは無いわ。ね、エステルさん」
「あ、は、はい。あの……、わたしのぼせそうなのでそろそろ出ます。ジュディス、お願いします」
「ええ。任せて」
一人先に露天風呂を出て行った少女の後姿を見送った後、ジュディスは掛け湯をする為に桶を手に取った。
「あの子には話したのかしら?」
ざぁっ、と湯を掛けてから尋ねた彼女に、カタリナは小首を傾げる。
「何を?」
「左胸の花」
「……あなたは知ってるのね。この花の意味」
「色々な土地を、色々な場所を見てきたもの。……花の種類は街も表す。あなたの赤いバラは――ザーフィアス」
でしょう、と確信を持って問いかけたジュディスに、カタリナは小さく頷いた。
「帝都の闇に咲く徒花の一人だったわ。……帝都騒乱をきっかけに偶然に日の下に出た、ね」
「そう。それを思うと、アレクセイの反乱も悪いことばかりじゃなかったのかしら」
「エステルさんはこれの意味を知らなかったみたいだから、敢えて話さなかったわ。私が今、夫を持っていても、聞いて気持ちが良い話じゃないことは確かだもの。無責任かもしれないけれど……、後は彼次第になるわね」
私は私の事情でこの旅に加わったのだけれど、あの二人にとっては厄災になってしまったかしら。自嘲しながら漏らしたカタリナに、ジュディスは嫣然と微笑んでそれを否定した。
「大丈夫よ。あの子――エステルは強いもの」
「……は」
髪もろくに乾かさないまま外に出てきたエステルは、まだ火照りの収まらない体から熱を吐き出すように息を漏らした。
ユーリとカタリナ。過去の知り合い。エステルの知らない、過去の彼を知る彼女。
もやもやと渦巻く思いは、カタリナの夫と子供への愛情を聞いて、見て、抱くだけ無駄な思いなのだと分かっている。理解っているのだ、頭では。けれどどうしようもなく、収まらない。
「わたし、……っ」
胸元を指先が白くなるくらい握り締めた彼女は、掛けられた声に弾かれたように振り向いた。
「エステル」
「っ……!?」
「カロルが外に出たっつったんだが、今日は冷えるぞ。下手すると風邪引くんじゃない」
歩み寄った彼がぽんとエステルの頭に手を置くと、その湿り気にぎょっとしたように目を見開くユーリ。
「何やってんだ? ろくに髪も乾かさないまま外に出て。本気で風邪引きたいわけ?」
首に掛けていたタオルを取り、エステルの頭に被せたユーリは眉根を寄せながら髪の湿り気を拭き取っていく。一言も漏らさない彼女を訝しげに思いながらも手を動かしていた彼は、取り合えずと手を離してぽんと叩いた。
「ほら、戻るぞ」
「……カタリナさんとは、どんな、知り合いだったんです」
そよ風にさえかき消されそうな声で、思わず零れた、と言った調子で零れた問いかけ。事実、口にしたエステルは自らの口元を抑えている。
「エステル」
「忘れてください。済みません、わたし……」
「エステル」
「…………はい」
「聞きたいなら、話す」
視線を合わせれば、ユーリは静かな目でエステルを見つめていた。少女は躊躇いがちに視線を外すと、口を開いて……しかし言葉に出来ずに閉ざして唇を引き結ぶ。
数秒か、数分か。強い夜風が吹きぬけ、とうに冷え切った少女の体を震わせる。気付いた青年は彼女の手を取って促した。
「湯冷めする」
返事を待たぬまま歩き出した彼は、今日の宿であるユウマンジュの離れへと足を向け、無言でエステルを女性達の部屋の前へと送り届けた。タオルを彼女の頭から取り去ると、踵を返す前にこう付け加える。
「決まったら言えよ」
聞くか、聞かないか。
おやすみ、と言い残して今度こそ踵を返して男性達の泊まる部屋の方へ消えた青年の後姿を見送っていたエステルは、瞼を落として呟く。
「ユーリは、意地悪です」
誰も居ない廊下に静かに響いた声は、未だ何かに躊躇うように揺れていた。