その島に到着したのは宵闇迫る頃だった。途中、気流が乱れた際に進路を迂回させたからの遅れで、どちらにせよ休息を取ることは決まっていたことだが、本来は遅くとも昼過ぎに到着して夕方に再出発、そして日付が変わる前にマンタイクに到着という予定で居た為、結果として一日遅れることが決まった。
飲食は屋台で可能だが、宿泊施設は無い。しかし、受付のうしにんに尋ねれば学校の中の保健室を使っても良いと言うことだったので、カタリナはそこで休むこととなった。負担を掛けないように気をつけていても、やはり揺れない陸の上の方が安心するのだろう、横になってすぐに眠りに落ちた彼女。
「私は此処で彼女を見ているから、あなた達は出ていても良いわよ」
こんなに居ても落ち着かないでしょうし、と付け加えてベッドの傍の椅子に掛けたジュディス。
「じゃ、適当に暇潰してくる。ほら、行くわよおっさん」
「えぇ〜、おっさんは居残り希望なのにぃ……」
「問答無用」
ずるずるとレイヴンの服の裾を掴んで引っ張り出したリタを見送った後、カロルはどうしたものかと考え、一つ頷く。
「じゃあボクは飲み物と簡単に食べられそうな物探してくる。カタリナさんは……眠っちゃったけど、ジュディスはお腹空くんじゃない?」
「そうね。全く食べないのも体に悪いし、お願いするわ、首領」
「うん、任せて」
「今日は此処で一泊なんだし、そうなると明日の朝のことも考えなきゃだし。その辺の奴らに聞かないとな」
「そうだね。それで、えぇと……エステルはどうする?」
どこか迷いつつ尋ねたカロルに、エステルは僅かに思案した後に答えた。
「残ります」
「そう? じゃあエステルの分も探してくるね」
「有難う御座います、カロル。でもわたしのことより、カタリナさんを優先してください」
ね、と念を押すように笑顔を向けた少女に、カロルはどこか釈然としないような表情で頷き、傍らに立つユーリを見上げる。
「そんじゃオレもカロル先生に付き合うか」
「え。いいの?」
「小腹が空いたし、何か摘みながら見繕えばいいだろ」
「うん……、じゃあ行ってくるね、二人とも」
「はい。いってらっしゃい」
「ゆっくりしてきていいわよ」
笑顔と微笑で大小二つの姿を見送った後、ジュディスは二人を見送ったまま立ち尽くしているエステルの背中を見てそっと溜息を吐いた。
「ジュディス、わたし……少し、お散歩して来ます」
「そう。もうすぐ陽も完全に落ちるわ。夜は冷えるのだから、あまり長くならないようにね」
「はい。行って来ます」
背を向けたまま頷いて、そのまま出て行った少女を見送ったジュディスは、苦笑を隠さないままに呟く。
「……旅が終わる前に、解決すると良いのだけれど」
「エステルは?」
黒髪の青年が戻ってきたのは、彼が少年と共に保健室を出てから半時ほど経った頃だ。カロル先生からの預かり物、と袋をジュディスに差し出した後、さっと視線を走らせてそう尋ねた彼に、預かり物を受け取りながら口を開くジュディス。
「お散歩ですって。あなた達が出てすぐのことよ」
「散歩?」
「分かっているでしょ。ユウマンジュを出発してからずっと悩んでいるのよ、エステル」
その言葉に、青年は僅かに視線を逸らした。
「あなたが肝心な所を言わないのは、私も同じタイプだから良く分かるけれど、それでもあの子に対しては少し言葉が足りなさ過ぎるのではなくって?」
「珍しいな、ジュディが口出すなんて」
「そうね。でも、あんまり煮え切らないのだもの。カロルもリタも心配しているし、少しくらいは良いんじゃないかしら。――それに、私も女ですもの、悩ます男より、悩める少女の手助けをしたいと思っても可笑しくは無いでしょう?」
微笑を湛えたままユーリを見据えて言ったジュディスに、青年は小さく吐息を漏らす。
「話すべきか?」
「どうかしら。聞いて僅かなしこりを残すか、聞かないで疑念を持ち続けるか……。けれどあの子なら、そのどちらでも無い答えを出してくれそうな気はするわね」
「エステルなら、ね」
呟いて、そして彼は踵を返した。
「オレも、ちと散歩に行って来るわ」
「そう、それなら少し待って」
呼び止められ、何かをごそごそと探るような気配がした後に白い繊手がレースの飾りが付いた布をユーリの肩越しに差し出した。受け取った青年が肩越しに振り向くと、ジュディスは既に元の場所――寝台の横に据え付けられた椅子――に戻っていた。
「夜は冷えるわ。あまり体を冷やすのは良くないもの。……いっそのこと、あなたが温めてあげても良いんじゃないかと思うけれど」
くすり、小さく笑う気配に、ユーリは肩を竦めつつも受け取った布――ショールを持つ右手を軽く上げて保健室を出て行く。
「そうかもしれねぇな」
残された一言に、また一つ、静かな空間に笑い声が響いた。
びゅう、と吹き抜けた風に彼女はぶるりと身を竦ませた。
屋上の欄干に両手を預け、ただひたすら眼前に広がる海原と夜の帳が下ろされていく世界を眺めていたエステルは、小さく吐息を漏らす。
考えて、考えて、考えて考えて考えて。
けれど結局はぐるりと一周して元の位置に戻っている、そんな思考の迷路。答えは入口と同じ場所にあるのに、僅かに残された暗い気持ちが、辿り着く前に出口から漏れ出る光を鈍らせてしまうのだ。
到着した時にはまだ明るさもあった空は、今は完全に濃藍色となっていて、散りばめられた星がちらちらと輝いている。月が無いから余計に際立って見えるのか、夜空に輝く一際明るい星――凛々の明星が眩しいくらいで。
「エステル」
この島の最も高い場所で、風も強いからなのだろう、声を掛けられるまで気付かなかった彼女は、びくりと肩を揺らす。
静かに近づいてくる足音はエステルの隣でゆっくりと立ち止まり、そして肩にふわりと掛けられる柔らかなショール。
「ジュディが、冷えるからって」
「あ、有難う御座います……」
飛ばされないように端を胸の前で合わせ持つと、肩に置かれていた青年の両手が離れていく。温もりはすぐに吹き抜けた風に掻き消され、彼女は肌寒さに肩を震わせる。
「ユーリ」
「……なに?」
「わたし、いっぱい考えました」
「で、答えは出た?」
「はい。……いいえ、答えは最初から出ていたんです」
す、と隣に立つ青年を見上げ、エステルは言った。
「気にならないかと言われれば、気になります。けれど、今わたしが見ているユーリは……カタリナさんと知り合って、その後にわたしと知り合って、旅をして此処に居るユーリ、です」
口に出してみて、エステルはそうだと自分でも納得するように頷く。
ただの知り合いではなく、何かしら男女としての付き合いがあった知り合いなのだろう。カプワ・ノールの宿での出会い頭、青年が呟いた彼女の呼び名からして、そうとしか思えない。
一度は暗い、暗い感情に支配されそうになったけれど、静かに思考する時間は埋もれていた答えを僅かに浮かび上がらせた。エステルが最も気にしていたのは、出会い頭の雰囲気など何もなかったかのようにしていた姿だ。
話して、欲しかった。
昔の知り合いなのだと、ただそれだけでも言って欲しかったのだ。
けれど、彼女は未だに「仲間」より少し特別な位置に居る……「仲間」でしかなくて。
言おうとして、言わせてくれなくて。けれどそれから臆病でただ近くにある位置に居るということで安堵して、気持ちを口にすることを避けていた。
「わたしは、此処に居るユーリを、好きになったんです」
「…………っ」
ぐっ、と。乱暴なまでに強く引き寄せられ、あっと言う間もなく抱き締められたエステルは、瞳を瞬きながら顔を上げようとして、それを阻止するように更に掻き抱かれる。
「……ユーリ?」
「あんたはほんと、いつもオレの予想以上だな」
「そう、なんです?」
「そうなの」
ゆっくりと腕の力が緩められ、ほっと息を吐いた彼女は今度こそと顔を上げた。すると、そこには夜空を背に夜明け色の瞳を眇めて自分を見下ろしている黒髪の青年の顔。
端正なその顔が近づいてくることに気付き、胸が高鳴るのを感じながら瞳を伏せた彼女は、柔らかに口付けられた。離れ、角度を変えて再び重ねられ、息を求めて薄く開いた唇から入り込むものに気付いて反射的に青年の胸に置いた両手に力を込める。すると逃がさないとばかりに少女を抱く腕に力が込められ、重ねられた唇の隙間から侵入したそれは惑うエステルの舌を絡め取る。
「ん、あ……」
「……だから」
息継ぎの合間に囁かれた言葉に、初めての感覚に朦朧としていたエステルは頬を上記させたまま問い掛けた。
「ユーリ、いま、なんて……」
「今度、ちゃんと言う」
そして青年は再び、彼女の顔に己のそれを伏せた。